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『見えにくいアクジ』とは

ナンなのだ

『すり替えアクジ犯』とは

いったいナニ者なのだ

  INDEXに戻る

見えにくいアクジのハンニンたちは、

見えやすいアクジをコロシの精神病院を

糾弾する、暴く、攻撃する

赤裸々にする

世間様に訴える

とても、素晴らしく徹底して、見えやすいアクジを暴く

だが、そこにあるのは、主体と客体の逆転である

いや、むしろ、主体である患者を客体化し

主体化してはならぬ医療従事者が、主体化シテシマウことでこそ、

より、徹底的に、見えやすいアクジを暴けるのだと、言わんバカリに

 

そう、だから、暴き方がすばらしく、糾弾する勢いが、より激しく

より根底的になればなるほど、ソウなるのである。

しかし、それでも、コロシの精神病院のアクジを徹底的に暴き、

攻撃することに、意義がアルのでは、と云う声がする

モチロンだ、モチロンだとも、それは、導入部としては、とても、大事である

しかし、いつまでも、そのママでいることは、できない

なぜなら、その糾弾と攻撃は、当事者が、被害者本人が

すべき、なのだから。

だから、導入部としてソレは許され、

しかも、当事者自身が糾弾できるように、

ソノように、持って行ける場合のみに置いて、

ソレは許されるのである

しかし、見えにくいアクジのハンニン達は、ソウは、考えない

それどころか、主体と客体とを逆転したまま、

被害者当事者の代弁まで、買って出てしまう

コレでは、当事者は、いつまでたっても、

被害の糾弾や生き延びる、行動の主体には、なれないのである。

もし、そうなろうとする当事者が出てきそうになると、彼らは彼女らは

そのウゴキをコントロールしようとしてしまう。

コントロール不可と、判断すると、ツブスのである

オソロしい

「見えにくいアクジ」と糾弾し続けてきた、最大のワケである。

 

一方、実は、実は、

病者の側にもセキニンがアル。

どういうコトかと云うと、

ツマリ、本能的にその医療従事者達の本音を感知した

患者たちは、ジブんの身を守るために、遠慮をし始め、

おもねるようになっていき、

自分の方から統制下に入りに行こうとするのである。

そして、その統制下に入りに行こうとした病者側代表が健病者でアッタ場合

それは、容易に、当事者スタッフ、

当事者性看板型翼賛病者運動ボスとなるのである、

全精連を、そして、病者集団をみよ、よく分かるではないか。

そして、お互いに、持ちつ持たれつの関係性を構築するのである。

 

カンジャ会と見えにくいアクジのハンニン達とが、

何故、本質的に

そりが合わないかが、分かろうと、いうものである。

しかも、ウンドー場面での見えやすいアクジに対する糾弾が

激しければ激しいほど、

セーカツの場としての自分たちの勤務先での医療内容について、

自分たちは、良心的精神医療の現場で、ヒッシに患者さん達のために

闘っているのだ、と云う、錯覚を、ドンドン増幅していくのである。

だから、益々、当事者にとっても、世間様にとっても、

コロシの悪徳病院にとっても、エラソウに、なってくるのである。

何時しか、自分たちの提供する医療と福祉の内容の自己点検すら

怠るようになるのである。

現在のニホンの精神医療のゲンバでは、モチロンのこと、

過去の精神病院などは特に、どこをドウ頑張ってみても、

精神医療従事者から、全き加害者性を消し去ることなど、出来得ないのである。

精神病院のゲンジツを、少しでもわかっていたら、即座に了解である。

そこに、確かに、精神医だけは別であろうが、

ツマリ、精神医は精神医と云うダケで推定有罪とみなす、ので、

精神医は、加害者的側面ではなく、

ドウあがいても、加害者ソノモノなので、ココでは、別モノとして、

扱おうとするキモチが強い、強すぎる。推定有罪、と云う奴である。

だから、現在のニホンの精神医療のゲンバでは、

モチロンのこと、

過去の精神病院などは特に、どこをドウ頑張ってみても、

看護婦は、看護士は、心理士は、ケースワーカーは、

加害者的側面を、消し去ることは、出来ないハズなのである

加害者的側面、ソコにおいて、まさに、患者にとっては

正看護婦や、准看護婦、心理士や、PSWや、

資格を持たない看護助手のチガイなんぞは無いのである。

だって、ソコに勤務して、給料貰って飯を喰って

子育てして、子供の学費を稼ぎ、

一戸建てのローンを払ったのダカラ

その間に、その病院は全開放に為ったのか

四肢拘束はゼロになったのか

電パチは無くなったのか

少なくとも、閉鎖の患者さん達の前で、腰につけた鍵で、

ジブンは自由に病棟に出入りしていたのなら

そのシーンを赤裸々に語るべきである

その腰に、ジャラジャラいわせた鍵束を付けて、

自由に出入りしていたのなら、

ソレは、立派な加害者である。

だって、ソコに入院していた患者さん達は、自由には、

出られなかったのだから、どんなに、どんなに望んでも、

出られなかったのだから

閉鎖病棟の在る病院でフツーに看護婦として看護士として

病棟でシゴトしていること、ソレ自体が、

もう加害者的側面を持っているのだ

チガウと言えますか

その鍵束は、ボクたちにとっては、孫悟空の筋斗雲ですよ

夢の又夢だ、空を飛べちゃうんだから

空飛んで、精神病院のあの閉鎖の保護室から

出られちゃうんだから

四肢拘束の手伝いをし、電パチの手伝いをし、そして、そして、、、

抵抗することすらアキラメた患者さんを閉鎖病棟まで、案内しなかったのか。

だが、闘う良心的精神医療従事者の彼女なり彼らからは、

スッカリ、己が加害者性は、消し飛んでシマウのである

しかも、被害当事者の代弁までデキルと、思い込んでシマウ

とくにそれが、見えやすいアクジを糾弾するためであると、ナルと、尚更である

だから、『見えにくいアクジのハンニン』に為ってしまわないためには、

不断に自分自身の提供する医療内容の自己点検と

そして、その結果としての、リクツではない

具体的な加害エピソードを、どれだけ赤裸々に

どれだけ数多く語れるかどうかに

懸かってくるのでアル

もちろん、その語りは、当事者が語るための導入部にシカ過ぎないものである

と云う自覚と、さらには、だから、代弁ではなく、

当事者本人たちに語ってもらうべくと云う自覚、

もしくは、姿勢が、重要なのである。

そしてそれは、精神病患者会と、

一緒に、ヤルしか、実は、できないことなのである。

なんとなれば、ヤハリ、ニンゲン、弱い、自分自身を、良く見せようと、

思ってしまうからなのである。

特に、ジッサイに、見えやすいアクジの暴露と糾弾とに、

成果を上げ得たカツドウ家的医療従事者こそが、

この罠に陥りやすいのである。

そして、主体と客体を逆転しつつ進めば

何時しか、制度政策提言路線の罠に陥ることになるのである

そう、良心的精神医療従事者が

ウンドーの成果と、患者さんのためにやっています、

と云う、ことを明らかにシヨウトすればするほど、

そして、ウンドー場面での成果が上がり

自己のセーカツの場での勤務先の病院での医療実践に

ゲンカイを感じ始めた時に、ソレは、容易に

制度政策提言路線になっていくのである

何故か、主体と客体とか逆転したまま、

ウンドー上のコトとジッサイのジブンの

セーカツとしての医療現場との遊離が、

ドンドン進むからなのである

ジッサイのセーカツとしての医療現場でのストレス解消を

精神医療改革ウンドーで、ヤッテしまうのである。

ソリャア主体と客体が、逆転するワナ

ジブンのストレス解消のためのウンドーなんだから

しかも、そのウンドーとやらで、

そこで、改革の答えを見つけようとすると、

それを社会と制度に求めるとなると、

そう【見えにくいアクジ犯】に為ってしまい、

制度政策提言路線に陥るのである。

ああ、もちろん、改革の答えを、

病理と病気と障害と患者本人と治療法に求めようとすると

そう【すり替えアクジのハンニン】に、為ってしまうのである。

両者の共通点は、主体を患者に求めず

主体を精神医や看護婦看護士に心理士に

ツマリ医療従事者に求める、ことなのである

 

したがって

見えにくいアクジのハンニン達と

すり替えアクジのハンニン達とは

地続きなのである

大ざっぱに言って、チガイは、

改革の答えの見つけ先のチガイと

己が加害者性のとらえ方とその表現のしかた

それに、セーカツの場である病院と運動バメンとの、

どちらに、身を強く置くかのチガイであると、想う

まぁ、ストレス解消の方法のチガイと、言っても、いい。

 

ハッキリ言って

『医療従事者側の

ストレス解消法

としての精神医療改革運動』

と云う視点で、見直すと

小林信子も、笠陽一郎も

人権センターウンドーも

セカンドハッタツ断薬療法も

見えてくるものが、アルと、想いますよ

だから、キチガイの側から言わせて貰えば

こう叫びたいんデスヨ

わしらが、なんでコイツ等のストレス解消の

ネタにならなきゃなんないんだ

バカバカしいったらありゃしない

と云うコトなんですよ

もう一つ、信仰の場面から来ている方々には、こうも、言っておきましょう。

「医療従事者側の信仰証明法としての

精神医療改革運動」も、お断りです、よ、と。

 

だから、まぁ、どちらも、

改革の主体を、医療従事者に置き

けっして、患者自身に置かない

一見置くように見えても、それは、患者グループを

或いは、患者自身を己が統制下に置ききれると、思っている場合だけである

そう、医療従事者達は、自己の統制下に、当事者を置ききれる、

と判断した時だけ、当事者を立てて、リヨウするのである

全家連と云うか、コンボ、みんなネット系、

全精連系統の団体を見て観れば、良い

 

病者集団ダッテ、おんなじコトなのだ

ダッテ、良心的医療従事者と云うトコロを、、、、

病者集団が、にじり寄っている、にじり寄ろうとする

良心的精神医療改革政党関係者、良心的精神医療改革官僚、

良心的精神医療改革教授、良心的精神医療改革弁護士、

良心的精神医療改革議員、

に、置き換えてミレバ、アッという間に、了解でアル

 

そしてそれは、ナニも全精連や病者集団ダケのモンダイなのではない

キーサン患者会にも、シビアーなモンダイなのである

キーサン患者会は、支援者を名乗る、最も身近な、

精神医療従事者との、特に主治医タル精神医とのカンケイ性を

とらまえなおした方が良い。

これは、ゼッタイ的にヒツヨウになってくる

それが、後世へのセキニンと云うモノである

我々、キーサン患者会は、長い歴史の中で

真に当事者主体を追及し続け得たと、自負できるのかどうかは、

まさにまさに

ココにかかっているのである

最も身近な、同志的支援者の医療従事者や福祉従業員達との

特に、主治医たる精神医ナル者との

カンケイ性の再確認と、再構築が、必要であると、

えばっちは、己が25年間の自己批判として、強く強く、想う、のである

何時までたっても、どのようになっても
あくまで、患者は、病者の側は、客体ナノでアル

見えやすいアクジを、コロシの精神医をアクトクの精神病院を

暴き糾弾し、改革していく物語は
どこまでいっても、患者の物語ではなく、病者の物語ではなく、
それは、たとえば、

良心的看護婦ガンバルの物語になるのである。
改革派精神医ガンバルの物語になってシマウのである

だから、
ソレを読んで、拍手できるのは、
同じ境遇の看護婦か精神医ダケなのであって、
タネにされた、病者の側は、結果として、

どのように暴露されようとも、

結局は、客体化されてシマッタ、代弁されてシマッタ患者側は、

ナンダカ、オカシイナァァーー
と云う違和感を抱えながら、

タネにされ、ネタにされた感を

もって読むことになるのである。
そうして、世間的には、いやいや素晴らしいシミン運動ではアリマスまいか
コロシの悪徳精神病院の見えやすいアクジを暴いた、

とても素晴らしい改革運動ではアリマスまいか
と云うコトで、拍手になるのである。
違和感を抱えつつ、当事者は、このなりゆきを、首をかしげつつ
やはり、当事者のやろうとすることなど、やっていることなど、

語ろうとするものなど、叫ぼうとするものなど、書いたものなど、

人気も無いだろうなぁぁぁーーと、想いつつ、沈潜していくことになるのである。
ジッサイ、当事者の書いたモノなど、専門職の書いた本などに比べると
圧倒的に、少なく、しかも、まったくもって不人気で、売れないのである。
シカモ、出版されたとしても、

ソレは専門職のお墨付きを得たモノだけが、出版、発言、出来る
と云うのがゲンジツなのである

当事者の口演や、講演や、シンポジストもまた、同じくなのである。

ゲンジツを直視すべきなのです、患者側も、ね

この点でも、ナンダか錯覚してやいませんかね、、、、、

錯覚してますよ、ホント、当事者の側もね、病者の側も錯覚してるよ、ホント

と言いたいのである

ドナタ様に対しても

特に、良心的改革派医療従事者と

その、統制下にあるハッタツ系当事者の諸君らには

錯覚してますよ、ホント、と、指摘したいのである

 

そして、ココで、さらにまた、もう一つの

重大な問題に、ぶち当たるのである

すなわち、当事者の了解を取る、と云う事なのである

 

さて、見えにくいアクジ犯もすり替えアクジ犯も

どちらさんのハンニンの医療従事者福祉従業員のミナサマ方よ

どんなコトをエラそうに、書いているのかシランが

書かれている当事者本人の了解は、取れていますのヤロな

代弁までしてはりますが、

書かれている、タネになっているご本人さんの了解は取れていますのヤロな

口寄せなら口寄せで、了解は、取りましたのか

了解と、言うても、イロイロあります。

そう、了解の程度と云うか、了解の度合い、と云うのもアリマスな

そして、そして、キーサン患者会の本音から言わせてもろうたら

本人の了解、ほど、誘導されやすいものも、アリマセンな。

ホントでっせ

知らない、フリなど、通用しません

アンタはんら、よーーうにわかってて、当事者本人の了解を

うまいこと、誘導しはりますな

本人の意向の尊重を言いながら

上手いこと、入院にもっていかはりますな

ある種、騙しのテクニックだすな

今流行りは、本人の意向を無視しながら

誘導しながら、セカンド減薬ハッタツ断薬療法

と云うコトでっしゃろな

だから、その成功美談の書き方も、ソウならはりますな

不都合な真実の方は、本人の了解が取れなかった、と言うて

上手いこと、狡猾に、隠さはりますな

見えにくいアクジのも、すり替えアクジのも

えばっちは、その巧妙さ、狡猾さ、嫌というほど、見てきましたからな

よーーうに、知っているんでっせ

当事者の了解を、どのように誘導して取るかは、

実は、リヨウ心的医療従事者の良心的為るがゆえに

染みついてシマッタ、性のヨウナものなのである

キーサン患者会側から見ると、

イヨーに狡猾で、狡賢く、愛に満ち溢れている好意的行為

とでも、表現しようのないモノなのである

だから、その手の書いたものを読むときに、コウ想いますな

どうしても、代弁してしまって書いたのなら

口寄せであることを

了解を取れていないことを

明示すべきですな

了解を取って書いている、と云うなら、

どの程度の了解なのか、どの程度誘導したのか

それらも

明示すべきですな

どーーしても代弁せざるを得ないというのなら

そのせざるを得ないという理由と条件を明示すべきですな

その理由と条件とは、ドンナものになるのかを、

ジックリと考え尽くした、うえでね。

そして、それは、また

当事者として、モノを書き続けているエバッチにも

当然のことながら、突きつけられるモンダイなのである。

だから、今、ここに、こうして、ココに書いているのである。

誰からも、喜ばれないことを、受け入れられないであろうことを

これでもかコレでもか、と、書いているのである。

そしてそれは、自分自身にも、突き刺さってくることなのである。

では、えばっちが、この点に関し、己が自身の原稿では、

どう明示しているか、ここで、明らかに、しておきたい

20148月号の「むすぶ」から始まった今回の、

セーカツ実録の連載にあたって、その最初の

段落に、どう書いているのか、その号を買って、

参考までに、読んでみて頂きたい、と、想う

まずは、ね

不十分なものである、不充分ながらも、

えばっちは、どのように、書きはじめたのか

そう、だから、今回の、むすぶの連載にあたって、

最初の号の最初の段落に

あのように書いて、連載を始めたのである。

キーサン患者会のキチガイとして、ドウ書くのか、なのである

買って、読んでみて頂きたいと想う。

ロシナンテ社刊行2014年8月号

「原則と基盤第二巻 性と暴力と患者会」である。

 

その上で、で、ある。大体が、ね

アンタ等のビョウインと云う仕事場で飯のタネにされ

アンタ等の改革運動タラの場でストレス解消のタネにされ

それで、

アンタ等が、エラそうに御託を並べて言うか書くかスル時にゃあ

我々当事者本人の了解は、反故にされてますのやで

そこまでされて、キチガイが、何時までも、ニコニコしていると、

多寡を括っているのでしたら、

そろそろ、眼を覚ましてもらいまひょ

しかもしかも、この本人の了解の利用が、また、酷いわエグイわ

見えにくいアクジ犯、すり替えアクジ犯にとって

都合のいい事なら、どんな誘導してでも、本人の了解とって

公表しまんのやわ

あーーもちろん、嶋田和子のように、

本人の了解無視してでも、公表しマンのヤワ

ところが、都合の悪い、不利な事なら、

本人の了解を取れなんだので、公表できません

と、コウなんですわ、ほんと、素晴らしい、ご都合主義ですワナ

本人の了解が取れないので、公表は控えさせてもらいます。

それだけ聞けば、ナントイウ、ちゃんとした対応と、想いますワナ

ところが、この文が出てくるときは、己が不都合な真実を隠したいとき

と、決まってますのやわ

ところが、己が都合の良いことは、本人の了解なしでも、本に書く、

と云うのが、コウいうね、ヤタラとヤカラな、レンヂュウですわ、ほんま

本人の了解の利用の一例、だすな。

精神医療改革のためには、必要な事、らしい、ですヨ

クタバレ、アホンダラ、この糞すボケ、スカタンアンポンタン

 

だから、コトは、立場性のモンダイなのである。

自己が語る立場をハッキリさせねばならぬ

そして、代弁をしてシマツテは、ナンニもならないのだ。

代弁、それは、一見、よさそうに見えて、実は、徹頭徹尾

患者自身の牙を抜くことに為るのだ

 

「口寄せ」なら、良いのだ

当事者なのか、

当事者が見えやすいアクジを暴露して糾弾しているのか、

それとも医療従事者が医療従事者の立場で暴露して糾弾しているのか、

それとも医療従事者が当事者の代弁として暴露糾弾しているのか、

はっきりしなければならない。

医療従事者が代弁としてやる行為は不可である。

それでも許されるとしたら、それは霊能者という立場で亡くなった者の

怨念を書く場合のみである。

すなわち、「口寄せ」なら、それはそれでよいとは想う。

ただし、霊能者であることを明示しなければならぬ。

 

以上を踏まえたうえで、

「口寄せ」ではなく

医療従事者が良心的医療従事者であるがゆえに、

当事者の被害を代弁し、

代わって糾弾暴露できると思うのであれば、

それは非常に危険な兆候であると想う。

まさに見えにくいアクジか、

すり替えアクジのハンニンに為ってしまう

心性の第一歩なのである。 

「わたしが、やらねば、だれがやる、

この可哀そうな人たちに代わって

わたしが、やらねば、だれがやる」

この燃えるような正義的、良心的、使命感が、

これが、第一歩に為るのである。

そして、この燃えるような正義的使命感が、

専門職としてゲンバで、不遇をかこつとき、あるいは、

自己のゲンバでの医療内容を改革し得ないときに、

このウンドー的恣意的代弁行為は、

特に、時に、時に、特に

フェミニズム傾向のある母性豊かな

やる気の溢れた頑張る精神医療従事者や

精神福祉従業員達を、

徹底した『依存サセ屋』にシテシマウのである。

その結果ナニが、おこるのか、は、しれたことである、

当事者のもっとも当事者らしい『牙』が、スッカリ抜かれてしまうのである。

『牙』を抜かれてシマツタ患者は、精神医療と福祉の

『家畜』『家族畜』『精神医療畜』『精神福祉畜』『改革運動畜』

『精神学会畜』『福祉学会畜』『審議会畜』『分科会畜』

と為り果てるノデある。

ハッタツ系、障害学系当事者たちは、自ら、ソウ為りに行っていると、

言って過言ではないのでアル

 

だから、代弁行為は御法度ナノデある

恣意的示威的自慰的侍医的代弁行為こそが

キチガイから牙を抜き、飼いならし、

見えにくいアクジのハンニンへの第一歩に為るのである

 

だから、立場は、ハッキリとさせねばナラヌ

看護婦は看護婦の立場で、医者は医者の立場で、発言せねばナラヌ

しかも、主体と客体を、逆転させること無く、でアル

追及しだすと、コレは、実は、相当に矛盾することに為る、と云うことが、

お分かりであろうか

だから、これは、ビミョーなバランスのモンダイなのである

しかし、このビミョーなバランスを取りやすい、目安と云うモノがアル

何度も、言ってきたのだが、

それがすなわち、医療従事者としての己が加害者性を、

コレデモかコレデモかと物語ることなのである

必ず、物語るコトなのである

ソレが、一つの目安、なのである

 

リクツではない、前進友の会みんなの部屋の

実は実は、みんなの部屋の歴史ソノモノなのである

これは、実は

そさんのことなのであり

みさんのことなのである

 

前進友の会と云う患者会の

みんなの部屋の中において、

そさんとは、ナニ者だったのか

みさんとは、ナニ者だったのか

クルシイけれども、ソコが赤裸々に語られなければならぬ

リクツではないのだから

患者会の歴史として、語られなければナラヌ

しかし、未だ、ソコは、友の会のみんなの、同意が、得られなければ、

語ることが、ムズカシい物語なのだ、ツラい物語なのだ

それでも、ここまでは、語っておこう

同意は、書記部とホームページ企画部には、とっておかなければ、、、

それにしても、語り難い物語なのでアル

 

そさんは、そして、みさんも、第一世代の、学生部隊出身者である

そさんは、その中でも、指導者的立場にあって、と云うより、

十全会東山サナトリウム告発糾弾運動の先頭に立っていた

そして、そう、前進友の会を、つくった、その中心人物ダッタのだ

そして、当然、その後長く、前進友の会は、彼の統制下にアッタ

と、そう言って過言ではないと、想う。

また、患者たちの、バリバリの代弁者ダッタのだ

ボクだって、そさんに誘われたので、友の会に入ったのだから

ボクは、そさんに言われて、入ったのだった。

そして、そさんに言われるまま書記部を担うことに為った。

そさんに、言われるままに友の会活動に参加していたのである

彼に言われたのは、やすらぎの里と前進友の会を半々にすることだった。

そのころは、やすらぎの里が99で前進友の会は1や、とか、

ココは、くるしみの里や、と云うような、声も出始めていたときだった。

だから、ボクは、まったくの、そさんの意識的な友の会復活のための

タマとして、投入されたわけなのだった。

で、まずは、会報を出してくれと、言われた。

そうして、本当に、そさんが、そういえば、事は、そのように進んでいくのだった。

そさんの意向とチガウことなど、出来ない、そういう雰囲気ダッタ

ボクも、最初のうち、そんなことに、あんまり、疑問も、抱かなかった。

でも、何時か、友の会のミーティングにもやすらぎの里の運営委員会にも、

ソンなハナシなど、無かった時に、いきなり職員になってくれないかと、

言われた時、こりゃなんだかオカシイな、

と、想い始めたのだった。それで、ハッキリと断った。

そんな、だったから

ボクが入った当初から、そさんがいなければ、友の会としてのミーティングが

始まらなかった。

だから、今想えば、よくやれていたなと、想うけれど、

食事会は、木曜の夜の6時か7時頃だった。

その後、ミーティングをやっていた。ミーティングは夜の9時頃まで続いた

名目は、働いているなかまたちも、参加する、カラだったのだが、

ボクだって、働いていたもんだけれど、

でも、その働いているなかまとは、つまり、い病院で看護助手をしている、

そさんのことダッタと、想う。

もちろん、他にもいたのだけれど、まずは、そさん、だった。

そうそう、た診療所で働いているなかまも、いたわけだから、

医療従事者達の仕事が終わってから、会議と云うワケだった

とにかく、彼がいなければ、大事なことは、ナンにも決まらなかった

そりゃそうだ、やすらぎの里作業所の所長でもアッタわけだから

今から想えば、そさんがつくり、そさんが指導する患者会と作業所と言って

過言ではなかった、と想う、そう、ソレが実情ダッタ

そう、だから、これほどまでの

「見えにくいアクジのハンニン」とは、一番身近に居たわけなのだ

とにもかくにも、そさんと友の会のみんなとの関係は、

ボクも含めて、それはそれはトンデモナイものだったと、今なら、想える。

そしてそれは、その時には、結果としては、そさんがもっともシビアーな

アルコール依存症になってしまい、想像を超える無茶苦茶になった。

はっきり言って、あのママでは、

何人かが死ぬことになり、二家族ほど崩壊してしまい、

前進友の会やすらぎの里も空中分解するところだった。

その寸前で、ぎりぎりで、そさんが、退職して行って

アルコール依存の治療に専念することで友の会は生き延びたのだった。

その後、そさんは、滋賀の方で、ゆという就労継続支援B型と、

ケアハウスを何か所かと訪問看護の事業所の複合的な

精神科福祉施設を作り上げ運営している。

やはり、彼が目指していたものは、アレダッタのかと、そう想う。

患者会の方向ではなかったことだけは、確か、なのである。

講演なども行っているようだ。そしてまた、酒を飲み始めていると聞いている。

 

さて、そさんがいなくなった後の前進友の会やすらぎの里は、

みさんを中心とする体制で運営されることとなった。

みさんは、

やすらぎの里的には、スタッフで、

前進友の会的には、ボクとともに書記部であった。

ただ、そういうことだけではなく、

みんなの部屋のすべてが、みさんを中心に動くようになった。

そして、誰もが、みさんを頼りにするようになった。

それは、そさんがいるときからも、ソウだったのだが、

そさんがいなくなってから急速にソレは深化していった。

どういうことかというと、みんなの部屋のなかまたちの自立心と生活力が、

どんどん低下していくのである。

みさんが、スタッフとしても、友の会の第一世代活動家としても、

頑張れば頑張るほど、ソウなっていくのであった。

もさんも、れさんも、とにかく多くのなかまたちが、なーんかどんどん、

みさんに精神的にもセーカツ的にもどんどん頼っていくのである。

みさんの濃厚な愛に包まれながら。

この経過で違和感を感じていたのは、ボクだけのようであった。

なんだか、とても立派なスタッフが、自分の生活も、

自分の家族も犠牲にして、患者さんのために尽くす、

というような愛に満ち溢れたセカイが出来上がっていった。

みさんも、なかまたちにむかって、

家族を犠牲にしていると、公言するようになっていった

特に、子供たちを犠牲にしていると

特に、生まれたばかりの娘を友の会のために、殺そうと思ったのだ、

と云うようなことを、声だかに言うのだった。

みんなの部屋でも、そして、そして、ついには、集会でも、言ってシマッタ。

聞くたびに、ナントイウか、なんというか、

信じられない、と云うか、ソウゾウを絶すると云うか、

ソンな想いを噛みしめていた。

聞かされる、こちらの身にも、なってみると、どう想うか、

こうなると、ナンダカ、とてつもない、セカイなのだった。

オソロシいシロモノだった。
でも逆に、とくに外から見てたら、とても、素晴らしいスタッフと云うふうに、

見えただろうと想う。

ところが内実はとてもタイヘンで、

ヘンテコなタイヘンと云うか、タイヘンなヘンテコと云うべきか、、、、

とにかく、なかまたちはどんどん依存的になり、

みさんは、どんどん依存させるように立ち回り、

そして、みんなから依存される、みさんにとっても、

キブンは良く、ヤリガイも在る、と云う、トコロなのだろうが、

そんなことが長く続くわけもなく、みさんは欝にはまっていくのだが、

そこでやめられるわけもなく、どんどん抗うつ剤をいれて、

さらにガンバルということになっていった。

もちろん、そんなこともまた、長く続くわけがなく、

依存することを覚えてしまったなかまたちは、

さらに、みさんに覆いかぶさっていき、限界が来たみさんが、

ときどき、誰も手伝ってくれない、と、泣きわめく、

という事態が頻発するようになったのである。

みんな、みさんを、宥めるのに、必死だった。

ダカラ、手伝おうとした、そう、手伝おうとしたのだ。

手伝おうとシタンですよ

でも、手伝う?手伝うって、それは無理だったのである。

なぜなら、みさんに、ハナシを聞いてもらい、みさんにナニかをしてもらいたい、

と云うことだったのだから、だから、他の人がやってもダメだったのである。

みさんでなければダメだったのである。

それで、事務シゴトなどを手伝おうとしたら、それもダメだったのである。

積極的に事務シゴトを手伝おうとするボクも含めて何人かのなかまに、

こう言うのである。

「私の仕事を取らんとって」「私がいらないの」こう言われてしまえば、

もはや推移をみまもる以外なくなくなってしまう。

もし本当に、手伝い出来そうな人が出てくると、ツブしたのである。

やる気も、段々無くなってくる、

それどころか、その方向で泣きわめきそうになる、みさんを、

なだめすかすのがタイヘンなのであった。

そして、そう、トランスジェンダーを名乗るびさんがアルバイトスタッフとして、

新しく入ってきて、みさんと意気投合したとき、

新たなる極彩色の愛に満ち溢れた七色の地獄の釜が開いたのである。

もうこれ以上、コレから先は語ることが出来ないと想う。

友の会のみんなにとっても、えばっちにとっても、

ここいらへんがゲンカイである。

しかし、それでも、ココマデは語らねばならぬ、

アレから、十年以上はたったのだ。

その間、友の会側は、沈黙を守りとうしてきた。

どうもチガッたヒトたちも居たようだが。

あの時の、その被害からも、なかなか、立ち直れぬまま、

アノことを書こうと、想う。

今から想えば、ヂゴクの釜が開いたと云う、形容がピッタリな状況になっていく。
その時、びさんが、まさか、みさん、と云う、第一世代を代表する女性スタッフと

一緒になって、アレホドの事態を招こうとは、想いもよらなかった。
大概、今までの場合、びさんタイプと、みさんは、対立するのが、フツーだったからである。実のところ、友の会に女性が少ないのは、みさんと合わない女性は定着しようがなかったからなのである。例えば、そう、よさそうな、若い、溌剌とした女性アルバイトスタッフ候補が来るたびに、男性陣は、ドキドキハラハラしたものである。何時みさんが、ケンカを吹っ掛けるか、イヂメを始めるかと。ところが、この時はチガッタ。あれは、レズか、と云うような、びさんとみさんのさわりっこの中、事態は、ドンドン深刻になっていくのであった。
びさんが言うには、自分は、トランスジェンダーと云うもので、男でも女でもなく、如何なる性的な法律や規範や道徳には、縛られないんダトいう。だから、男とも、女ともセックスするし、何人もの人とセックスするし、同時に複数の恋人がいるのも、当たり前なんだそうである。。
しかも、見た感じは、はっきり言って、

とっても魅力的な女性ソノモノなのであった。
最初にびさんが、提起した問題は、男便所と女便所を区別していることが性差別に当たる、とかいうことで、便所を男女共用にすべきだ、と云うトコロから始まった。そして、それは結構な議論になった。今想えばバカバカしい限りである。だが、しかし、元気な若いやる気のある魅力的な女性スタッフの魅力たるや絶大なものであった。ついには、おとこもおんなも、びさん中心のピンクサロンのようになっていった。それは、想像を絶する状況で何人かの古いナカマたちから、こんなところに来るのはもうイヤだ、から、びさんはワシと結婚してくれると約束してくれた、から、家族も友の会もみんな捨てて、びさんと駆け落ちするんだ、とか、これは、みさんがみんなの前で放言していた。

まさに想像を絶する事態となり、

ナントイウか、本当に、タイヘンなコトになっていったのですよ。

複数の人死にの可能性が出てきた。
誰かが、想いきって、やらなければならない時が、迫ってきていた。
そして、それは、徹底して、、、、そうそれは、

友の会唯一のアルバイトスタッフの強制退職、と云うモノになった。
この時の傷はいまだに癒えていない。
現在の友の会のみんなの部屋のは、未だに、この傷から、いかに脱却していくかという過程の中にある、と言っても過言ではない。この時の傷は十年以上経った今でも癒えていない。オソロシイことである。

今でも、言われるのである。

二十年間、同じ場所に座り続けて、余り話すことなく、余り目立つことなく、

みんなの部屋を、見続け居続けてきた、なかまから、こう言われるのである

あの時、えばっちは、もっと早くになんとかすべきだった、えばっちが、やるべきことをサボって、肝心なことをやらないできたからなんや、と。そして、あの時も含めて、わたしは二十年間、みさんに、イヂメられ続けてきたようなトコがあるノンやで、と。まさに、、、、あのヒトがね、なにか気に入らない、となったときはタイヘンやったんやでと、えばっちやら、ださんやら、うちゃんがいないときこそ、すごかったんやでと。びさんとのいちゃいちゃも、あんたたちがイナイときこそ、ドンナやったか、えばっちやうちゃんは本当のところを知らんのや、と、言われたのである。

わが身の不明を恥じるしか、ない、と、想った。

 

さて、だから、良心的医療従事者や、

良心的精神福祉従業員たちが

あまりにがんばり、あまりに評判が良いと、

そして、あまりに、病者や患者さんのためとやりすぎるのは、

良いことは、決して決して、生み出さないと想う。

特に、恣意的で自慰的で示威的に患者の立場で

代弁をはじめたとき、

特に医者は、侍医的に患者の立場で代弁をはじめたとき、

そこにあるのは、病者患者の尊重ではなく、かえって

病者患者自身の

「自主自立」「自主集合」「自炊会食」

「自問自答」「自己自称」「自由独立」

「団結礼信」「交友仁義」「自尊自衛」

「自陣自闘」「自暴自棄」「自生自傷」

「自行自白」「自縛自放」「自存自営」
「自遊自レク」「自己決定」「自己滅裂」
しようとする、

キチガイの牙を抜き飼いならす第一歩に為るのだと想う。

それが、

見えにくいアクジ

良心的医療従事者

良心的福祉従業員

すり替えアクジのハンニンたちが

陥るドツボなのだと想う。

その特徴的な姿は、『評判の良いデイケア』に行ってみれば

一目瞭然、一目利用善である。

自分たちは良いことをやっているツモリなんだろうが、

なんのことはない、

善意こそが地獄への道を舗装しているのである。

この場合、特に善意こそが

愛に満ち溢れた七色の地獄への道を舗装しているのである

確かに、この舗装された道は歩きやすい。

しかも、極彩色に綺麗なものなのである。

で、歩きやすいがゆえに、

結局は天国のような地獄にまっさかさまナノである

だからこそ、ソコを気づいてシマッタ、われわれは、

歩きにくい茨の道を選んだのである。

それが、キーサン患者会であり、

キチガイが街に居座り街で居直る、ということなのである。

だから、われわれは本質的に、

どのような善意であろうが、良心的であろうが、

力の続く限り、見えやすいアクジと対するのと同じように、

いや、それ以上に

見えにくいアクジとすり替えアクジのハンニンたちに、

牙をむいて襲い掛かっていくのである。

すくなくとも、そのアクジをこれでもかこれでもか、と、

暴露していくのである

善意に満ちた七色の地獄アクジの暴露なのである。

まさに、良心的にガンバッテいる良心的スタッフのみなさんの、

七色天国的見えにくいアクヂ地獄すり替えアクジストレス解消法を余すところなく、

糾弾暴露し続けるのが

キーサン革命なのである。

 

わしらキチガイは、アンタラの飯のタネやないで

わしらキチガイは、アンタラの信仰の証明のネタやないで

わしらキチガイは、アンタラのストレス解消のネタやないで

たいがいにしとけよ、この、アホンダラが

バカバカしいったら、アリャア――しないよ、まったくさ

気付いてしまえば、バカらしいったら、

アリャアしないよなーーまったく

だから、叫ぶしかナインだよ

 

キーサン革命バンザイ

キーサンンーーーンンンーーーーンンンンン革命バーーーーン

ーーーザーーー

ーーイイイイイイ

イイーーーイイイイイイイイイーーーーイイ

バンザーーーイイイーーーイイイイイーーーーーイイイイイイイイイイイイイイイイーーーイイイイイーーーイイーーーイイイ

 

 

2015/1/23 起稿  前進友の会えばっちより

 

 

 

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