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『後見人』とは

ナンなのだ

第二弾

『後見人』とは、

いったいナニ者なのだ

またしても、もさんが、重体に

キチガイとして
後見人ナル者に
ハンタイする
後見人制度為るモノに
ハンタイする

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もさんは、今年、80歳である。ぼくと、

もさんの付き合いは長い。

もさんは、怒りん坊である。いつも、気に入らないと、

怒鳴りだす。

外で、道を歩いていて、

うるさかったら、カラスに喧嘩を売り、

そして、トラックやバスにも喧嘩を売る。

カラスにケンカを売っている姿は、スゴいものだった。

機能性難聴との診断で、障害者手帳も、持っていたが、

本当に、難聴だったのだろうか、知的障害も、あると、されて、いた。

肉が大好きで、すき焼きが大好きで、ぜんざいが大好きで、

川魚が大嫌いだった。

食事会がない時は、いつも近くの千成で、食べていた。

千成の、すき焼き定食が贅沢だった。

その千成も、店じまいをした。

今、もさんが、シャバで暮らしていたら、如何しただろう。

生きることに、貪欲で、よく、怒り、よく笑い、よく食べた、

そして、好きななかまには、

徹底して、人懐こく、接するのだった。

くちゃんが、大のお気に入りで、「くちゃんは、かわいいなぁー」と云いながら、ほっぺをナデナデしていた。

好悪の感情が、ハッキリ過ぎるくらいにハッキリとしていて、

いつも、ニクマンの中心にいるのだが、

案外、誰からも、本気では、憎まれ、は、しないのだった。

 

何人かで、自主的に海津温泉というところに二回か、三回、か、行ったことが、あるのだが、そこは、よく考えてみたら、木曽三川の交わる輪中地帯で、川魚料理が有名だった。アユや、マスや、ナマズ料理まであった。怒り出すかと想ったら、温泉に連れてきてもらった、と云う、ことで、大喜びしていて、嫌いな川魚には、一切手を付けないということだけだった。

怒り出すかナと想ったんだが

たしか、海津温泉旅行の一回目の時か、えばっちの運転で、うちゃん、ふさん、そして、もさんとで行った。なまずのかば焼きが名物で、ぼくたちは喜んで食べたのだが、もさんは、「嫌いや」と言ったきり、手をつけなかった。だが、旅行自体は、とても喜んでくれて、途中で寄った養老の滝での記念写真が残っている。温泉の前で踊っている、もさんとえばっちの写真、それにうちゃんがふさんに四の字固めをかけている写真が最高である。

確か、二回目の時は、アルバイトのに君、うちゃん、うクリニックのたさん、そしてい病院に入院中の、なさんだった。なさんの退院に向けての一環ダッタところがあって、もさんも、さかんに、「連れて行ってぇなぁーつれってってぇなぁー」、と言っていたのだが、普通車の定員五人だったから、ムリだったのである。

それで、三回目だったかの海津温泉への旅は車2台で行った。えばっちの車と、そのときアルバイトスタッフだった、にくんの車とで、2台である。総勢8人で行ったのか。会計はアルバイトスタッフのいくんがしてくれて、いくんの友人が来てくれたおかげで、こさんと、一緒に行くことができた。入院中のなさんも、あっさり病院側が外泊を許可してくれて、今だったら家族以外はダメだと言うだろうが、このときはあっさりしたものだった。

やすらぎの里でもなく、前進友の会でもなく、

アルバイトスタッフの若者2人とえばっちの勝手にやった、

冒険旅行だった。

もちろん、もさんは最初から行く行くと言っていた、

一番の言いだしっぺ、と云うか、行きだがりっぺ、なの、だった。

赤茶色の硫黄臭のする塩味のすばらしい湯だった。

地元の人たちが、廊下に、毛布を敷いて、一日中、温泉に入っていた。

ぼくたち、泊まり客は、その間を、よそ者ですが、一緒に入れてください、と云う

カンジで、入りに行くのである。

その雰囲気が、ヨカッタ。実に、リラックスなのであった。

もさんも、なちゃんも、こさんも、じちゃんも、リラックスしていた。

このときの記念写真はお宝ものである。

 

もちろん、もさんは、友の会の夏レクには、

最初の参加以来、全てに参加しているのである。

どのような、場合でも、どのような、場所でも、

晩御飯、朝御飯、いつも、きっちり、食べていた。

旅行が大好きで、列車が大好きで、ドライブが大好きで、

えばっちに、七人乗りの車を買え、と言うのだった。

何処かに行く、となれば、必ず、一緒に行くとなり、

何週間も前から、荷物のシンパイをはじめるのだった。

想えば、90年代、東京の集会に行くとき、いつも一緒に行っていた。

東京の集会に参加した回数は、もさんと一緒が一番多かったと想う。

だから、東京のいろんな団体が、前進友の会のもさんを、良く知っている。

確か、新松にも、街にも、八王子ホットにも、もさんと、泊まっている。

どんな集会や学習会でも、ニコニコして、座っていた。

ハッキリ言って、中身には一切興味はなかったと想うが、どこかに、お出かけすることが、大好き、ダツタのである。

みんなの部屋の中で、東京行きのハナシが出ると、ワシも行くと、必ず言う。

新幹線も大好きだった。若い時の仕事が、機関車の火夫、つまり、機関車の缶の中に石炭をほうり込む、重労働だったから、苦労も多かっただろうけれど、

とにかく鉄道に乗ってどこかに行くということが、大好きだった。

えばっちのクルマにも、たくさん乗って、よく遊びに行った。

どれだけ、行ったか、ワカラナイ。

車でナニか用事で、行くとなると、かならず、

「乗せて行ってや」「連れて行ってや」と言いつつ、支度を始めるのだった。

 

2000年きっかりに、街がやった、チャンプラリズムへも、一緒に行きました。

上野でした。上野駅から、水上音楽堂まで、歩いていく途中で、

確か渥美清さんの手形が、あったのです。もさんが、手を当ててみました。

それが、ピッタリなんですよ、オドロキマシタ。

あれは、いい想い出だなぁぁーー

そうそう、2002年3月24日の、あの、観察法反対の集会と、デモにも、参加しました。あの時は、もさん、くちゃん、ざくん、と、友の会は、何人で参加したのか、そう、確か、集会でも、発言したのでした。なかなか、凄い発言で

「もりしょうじと、言います。ら病院に何十年も入院していました、今はやすらぎの里におります」と、反保安処分集会で、ヤツタのだった。この発言の凄みが、あの集会で、どのくらい伝わったのだろうか、、、、、その後は、結構激しいデモでしたが、終わった後、もさんは、ニコニコして、解散場所の公園で、踊っていました。例の「かけがえの前進」を撮っていたころだから、あの解散場所の公園での雰囲気、映画になっていたら、ヨカッタ、と、想う。あの頃のもさんが、一番元気でニコニコしている、姿、だったと、想う。

 

自分一人でも、よく出かけた。

一度なぞ、新幹線で、博多まで行って、すぐ帰ってくる、と云うこともあった

みんな、ビックリ、した。

亀岡にある、お墓には、始終行っていた。

アレほど、頻繁にお墓参りに、行く人は、居ない、と、想う

みんなの部屋に来たときには、もう「お墓行ってきた」と言うのである。

いつだったったか

もさんに、こう言ったことがアル

「もさん、ソンナに、お墓行くんなら、ジブンも、いずれはソコヘ入るんか」と、

聞いたのである。

もさんの答え、たった一言、こうであった

「アホ抜かせ」

ジブンが死ぬことは、まったく、想定していないようであった。

 

綺麗なかわいいお姉ちゃんが大好きで、

だから、看護婦さんやヘルパーさんが

若い、かわいいお姉ちゃんだったら、それだけで、もう

ニコニコなのである。

同じなかまのミスターMや、

こさんを嫌いぬき、MMニクマンという、言葉を生み出した。

こさんが、ある時、やすらぎの里から出るとき、靴がないと、大騒ぎになった。

階段の下に、靴が放ってあった。もさんがやったのであった。

次からは、こさんの靴を、どこかに隠すようになった。

そのたびごとに、こさんの靴さがし、である。

なので、とうとう、こさんの靴を別保管しておく、と云う仕儀になった。

それでも、こさんも、もさなも、友の会のみんなの部屋に居るのだった。

 

こ、と云う、重度心身障害者通所援護事業、と云うコトだったのだが、六年ほどアルバイトをさせてもらった事がある。そこの面接に、今からすると、ムチャクチャだが、一緒に連れて行ってや、という、もさんと一緒に行った。そこで、二人で、ストレッチなんかして、もさんは、すぐに、ソコが、気に入った様子だった。それが良かったのか、すぐ採用された。あのアルバイトは、もさんのおかげで、なれたようなものだ。あとで、親方のし施設長が、お主任が、そう言っていた。

もさん、ありがとうな。おかげで、アルバイト先が、見つかって良かったよ。

 

ともかく、小柄だが、がっしりとした体躯の、喜怒哀楽の激しい

難聴で、知的障害で、生きるエネルギーに満ち溢れていた

もさんが、

なんと、三十年近くも、府立ら病院に、入院させられていたのである。

家族に、弟さんに、入院させられていたのである。

強制入院である。

家族による、同意入院である。医療保護入院である。

人生で、一番いい時、30年近くを、精神病院で、過ごさせられたのである。

友の会と、出合うまでは、退院はもちろん、

外泊もさせてはもらえていなかったようなのである。

その退院、アパート退院に至る経過は、

まさしく、前進友の会の第一世代たちの、素晴らしい、活動ダッタと、

そう想う。

主治医は、プシ共闘の御大、お医師だったのである。

リクツや、メダツトコロや、国会の参考人や、講演会や、ナンタラ反対集会やら、学会の理事職を確保することよりも、医師としてヤルベキことがアッタのではないのか、と、そう想う。プシ共闘系の活動家ダッタ精神医達の欠点だと、そう、想う

50歳近くになって、やっと、シャバで暮らせたが、

70歳くらいから、だんだんと、シンドくなり、

結局は、精神病院に、戻っていったのである。

それなら、元々いた、ら病院に、最初は、戻って、行ったのではあるが、

そこで、閉鎖病棟の保護室で、四肢拘束の五点張りをされていた。

もさんは、そのら病院から出られたとき

「シャバにきた」

「看護士にきつうにヤキいれられたわ」

と言っていた。

友人面会も、禁止だ、と云う、ことだったから、コレは、アカンと判断して、

それで、い病院に転院することになり、今に至るのである。

プシ共闘の拠点病院だった府立ら病院が精神科救急に特化していく

過程での、悲惨な、転院劇だった。

2005年のコトだった。

だから、もさんとの最後の旅は、アレは、確か、05年6月の阻止共闘の集会で、アノ映画「かけがえの前進」の上映会、だったはずで、

その時は、ざ君と、もさんと、三人で行って、上映会に参加して、新松に、泊まらせてもらった、と想う。その時は、東京暮らしをしていたくちゃんと、再会し合って、上機嫌だった。

近くのラーメン屋さんに、新松のみなさんと、多勢で行った。

その時の、記念写真に、もさんが、写っている。

この旅が、元気だった、もさんとの、サイゴの旅、

と云うことになるのかもしれない

 

05年の入院から、2010年のSIADHで倒れる間の

ぼくたちは、もさんをずっと入院させ続けていたわけではない。

そう、確か、落ち着いてきたら年に3度か4度は2泊3日から1週間ぐらいの外泊はいろいろと試行錯誤しながら、友の会みんなで話し合いながら、挑戦し続けていた。

最初のうちは、もさん自身がアパートに帰りたいわーと言っていたし、友の会のみんなも、なんとか後数年はシャバで暮らせないだろうか、とみんなが想っていた。とにかく、ありとあらゆる手段を使った。訪問看護も、ヘルパーも入れていった。ふと気が付くと、入院中の岩倉病院だけではなく、近くのいわゆる社会資源なるものをほとんど網羅していたと想う。だから、もさんの外泊に向けての打ち合わせ会議が大変だったのである。岩倉病院のPSW、訪問看護、入院中の病棟の看護、ヘルパーの派遣事業所のケアマネ、サビ管、ヘルパー、福祉事務所のケースワーカー、が、とにかく集まって話ししなればならなかった。段取りをする人間も、会議場所の提供も、前進友の会がやったのである。

だから、友の会のみんなの部屋で上記の専門職たちが一堂に会し、友の会のほうも希望者は自由参加だったから、それは、すごい会議だった。

一度や二度ではない、結構何回もやったと想う。

そうやって、もさんの、外泊や退院に備えたのである。

そう、あれは2007年、もさんもまだまだ元気だった。友の会の食事会で晩御飯を食べ、土日は訪問看護が来ることになっていた。その、2泊3日の、もさんの外泊のためのクスリが、あまりにひどすぎた。いろいろいきさつはあるのだが、訪問看護のクルマの窓ガラスをかち割って、そのクスリをつき返してやった。

もちろん、そのあと、警察の取り調べと現場検証を受けることになる。

そうそう、もさんの外泊退院のときの、愉しい想い出も書いておこう。

もさんが、すき焼きが大好きだったので、外泊中にスタッフのてくんが腕によりを掛けたすき焼きをこしらえた。もさんと、えばっちは、大喜びだった。バクバク肉を食べたものである。安い肉をあれほど美味なすき焼きにする、てくんの手並みはすごかった。

ヘルプに入ってくれた、やくんのねぎの切り方が、あまりにもひどく、これは、いまだに語り草になっている。みんなの部屋で、何人かでもさんの添い寝をしたのである。

 

そうそう、あのえばっちが発狂した簡保と云う職場にも、もさんと一緒に行ったことがある。確か、カレンダーだか、石鹸だか、を売りに行ったのだと想う。もさんが、一緒に連れて行ってくれというので、一緒に行った。そして、カンポの古いナカマに、モノだけ渡すと、帰ってきたのだが、それでも、末端管理者どもが、大挙して下りてきて、囲まれる中でのコトだった。

みんなの部屋に帰って来て、もさんに、簡保どうやったと聞いた。

えばっちが、発狂したトコなんやで、と、言って。

そのもさんの答えが、ふるっている。というか、真実を言い当てている。

「あそこは、精神病院やったんか?」

大挙して管理課から下りてきた末端管理者連中が、

ヤキを入れに来た看護士の一団に見えたことは明明白白の事のようだった。

 

もさんの、名語録を紹介しておきたい

「しまつせなあかん」

これは、つまり、倹約、節約しなければイカンと云う、ことで、セーカツぶりは、とても、つつましやかなもので、質素で、あった。誰かをヤレ、と云う意味ではない。今どきのケースワーカーたちに、やいやい言われなくても、この世代の、もさんのような、人たちは、こさんたちも含めて、実に、つつましやかな暮らしぶりだった。それなのに、あの福祉事務所のワーカー達といったら、、、、

「出面(でづら)だしといてや」

これは、作業所の出欠表に、出席しました、書いておいてくれ、もしくは、出欠表を確認しといてくれ、と云うことである。日雇い人足を、日雇い仕事を、ヤッタ事のある人なら、お馴染みの文句であろう。時々、チャント言わないと、ワルい親方は、出面を誤魔化すのである。もさんも、誤魔化された口なのであろう。

えばっちのいくつかやったシゴトで、付いた親方たちは、

でづらに関しては、マシな方だった、とそう想うが、念のため、

オレも、もさんと、一緒に言っておこう

「でづら出しといてや」「出面、誤魔化さんとってや」

「でづら、ごまかさんとってや、たのむで」

出面誤魔化すような親方には、当たりませんように、お願いシマッサーー

 

もさんが、また、11月5日に、み病院へ搬送された

い病院に戻って二週間も、経ってはいなかった

 

前回の8月19日の緊急搬送の時から、ハナシ始めよう、か。

いや、その前の、搬送も、アッタ、はずだ。

もさんが、ら病院から、い病院に、転院していって、以来、何度、内科に搬送が

あったのだろうか、、、、その度ごとに、お見舞いに、駆けつけた。

最初は、ほ病院へ原因不明の熱で、搬送されました。ボクたちが、面会に行くと、ご家族以外の方に病状は説明できないということでした。そして、二週間ほどの入院でしたが、毎日のように代わる代わる面会に行きました。病状説明の交渉しているうちに、岩倉病院の主治医やPSWに連絡を取って、岩倉では、準家族のようにみなして、説明している、と云うことを、ほ病院に話してもらって、ナントカしました。タイヘンでした。

 

その後、2010年には、なんと、SIADHになってしまい、意識不明の重体のまんま、お病院に緊急搬送されました。ここでも、同じような扱いをされましたが、毎日のように面会に行っているうちに、少しは病状を説明してもらえるようになり、これは、岩倉のPSWの支援が大きかったです。つまり、岩倉病院のPSWより、強く申し入れをしてもらい、その点は助かりました。しかしながら、お病院の主治医の病状説明には、うまくだまされたなぁー、と云う、想いが残りました。「ナトリウムが流れていく理由はいろいろありますからねぇーーー」と言われて、安定したとたん、岩倉に戻されました。

 

い病院に戻って、数か月して、硬膜下血腫と、左半身の麻痺で、き病院に搬送された時は、やはり、ご家族の方以外に病状は説明できないとされ、看護や主治医と揉めるというか、交渉というかしているうちに、胃瘻造設まで行われてしまい、一体誰の責任で、胃瘻造設がなされたのか、全く説明されませんでした。後に、岩倉病院の主治医に訊くものの、最後まで、どちらの病院の誰のどのようなオーダーだったのか明確にされませんでした。このころから、寝たきり状態になっていったように、想われます。

 

そして、再度、ほ病院に、不明熱で、入院となります。最初のほ病院と、またもや、同じような、やり取りを繰り返すことに為りますが、この時の、い病院の、やPSWのほ病院への口添えには、本当に、感謝しています。

 

一体、何回、緊急搬送されたのか、その度ごとに

病状説明はご家族以外には、できませんと、何度、聞いてきたことか。

でも、今回については、

今までとは、まったく質の違う、とてつもない、非常ナル憤りを感じました。

それはなにか、、、、

ここ、一年半ぐらい前から、

い病院がつけた『後見人』トイウモノがなんと、

「積極的延命措置を要しない」というスタンスを取り続け、

もさんを三十年近く宇治の、ら精神病院に入れ続けてきた、

そして面会にも、来たこともないような弟さんからの、

なんらかのペーパーを持ち出してきて、そう言うのです。

しかも、

後見人『イワモト某』氏は、たった一本の電話で、

「法律的には友の会の方には権利はない」

「法律的にはそちらの話を聴く必要はない」

と言われた時には、怒りを通り越し、これはもはや

なんというか、

「これは、もはや、人殺し、だ」と云う

事態に立ち至りました。

今までも、緊急搬送は、もさんだけではなく、何度もあったのですが、

とにもかくにも、なかまが、い病院から内科の総合病院に緊急搬送されるた度に、ベッドに横たわっている重態のなかまを、なかまが、面会し続け、そしてそのなかまとのセーカツを 説明し続けていると、向こう側も、それなりに理解を示し、説明をしてくれるようになってきていました。

そこは、危篤のなかまのまえで、ニンゲンの心情だったわけです。

そうやって、乗り越えてきたのです。

が、しかし、

今回は『後見人』なるものの

心のまったく通わない、人間味のかけらもない、

「そちらには、法的権利がない」と、言い

会って、話しましょう、と云う、こちらの提案には、

「法的には、話し合う必要性を感じない」

と云う、一本の電話で、終わってしまいました。

本人は、一時危篤でしたから、本当に、殺人である、と、腹が立ちました。

しかも、『後見人イワモト某』から、

総合病院の主治医へ

「本人の医療状況の説明は私が受ける」と、

面会にも来ないまま、電話一本で、やったようで、

タイヘンな事態となりました。

ただ、ゲンジツには、一度も面会に来ない『後見人』よりも、

この二週間毎日面会に行き続けている友の会やすらぎの里の方に、

主治医が、親近感を持ってくれたようで、ギリギリの法の範囲内で、

我々に、刻々と、報せてくれ、最終的には、もしも、の場合、電話連絡は、

こちらの方にするので、その時は、30分以内に駆けつけて欲しい、と云う、

申し合せになりました。

ありがたいことです。

だから、この間、所長役のなかまと、えばっちの携帯電話は、

二十四時間体制の延命措置の連絡電話になっていて、タイヘンデシタ。

 

こうやって、8月9月10月と、乗り越えて、

もさんは、貪欲に、生を、追究し続け、ついに、元気となって、

い病院の同じ病棟の同じ部屋の

同じベッドに、戻っていったのでした。

しかし、11月5日、再度、み病院に、搬送されました。

 

翌日翌々日の、6日7日と、面会に、まず、駆けつけました。

7日話した、み看護婦は、前回の8月に最初に行ったとき一番真摯に話を聴いてくれた看護婦だったと想う。本日も、時間は短かったが、もさんの状態について一番重要なことを伝えてくれたと想う。然るに、昨日6日の、は医師の態度と病状説明ナルモノをを、一晩想い返してみるに、トンデモナいむちゃくちゃな医者からのハナシでアッタとの結論に達した。
 
 1.)何の根拠もなく誤嚥性肺炎の場合「諸外国」では、老化の一つとみなし、治療を施さないということを、我々に信じ込ませるところであった。
 これは考えてみれば、は医師が医者として、老人医療全般に対して、誤嚥性肺炎のような場合は、積極的な延命措置を施さないということを、強く支持していることを示唆するものである。倫理的に、許されないと想う。
 
 2.)昨日の段階で、感染源が尿道バルーンにあると同定することは不可能である。ということは、同定できないまま、同定したと我々に嘘を言ったことになる。倫理的に許されないことである。
 
 3.)しかもそのうえ、わざわざ、は医師の方から持ち出して、意思決定において、後見人が優先するということを、我々に明確に伝えたうえで、 しかも、一年半と三十年以上と云う、付き合いの長短は関係がないと、明言した。
 
以上三点を総合的に考えると、医局内において、何らかの話し合いが行われ、
前回の8月の緊急搬送時に、お医師が我々に法的に間違った説明をなしたので、それを修正しなければならないと、その一点に昨日11月6日の「は医師による説明」の趣旨があったことを示唆する。
倫理的に、許されないことである。
 
後見人イワモト某の態度といい、

この、は医師の態度といい、

この後見人制度は、

想像を絶する欠陥制度だと、

想われます

こんなことを放言しても、

法的には、ナンらモンダイ無し

と云うより

法に、基づいて正当だ、と言い切って

シマエルのだから、つまり、は、

制度に欠陥がアルのです

キチガイは

生存をかけて、闘いぬくべきである

と、そう想いました 

 

考えてみれば、実に差別的な法制度で、ある。

禁治産、準禁治産、では、外聞も、使いかっても悪い、ならば、

世論的にも、見栄えがし、しかも、儲けシゴトに、繋がるように

上塗り化粧を、施せばよい。

禁治産を、世の中に、徹底的に、上塗り化粧して拡め腐ったモノなんですよ。

ナンデも、そうだ。

精神分裂病を統合失調症に変えたら、ずいぶん、貼りやすくなったし、

儲けシゴトにも、繋がった

この際、統合失調症をハッタツ障害に変えたら、ジブン達の方から、

わんさか、やってくるように、ナッタわい。

笑いが止まらんワイ、と、オンナジ事なのである。

禁治産から、後見人に変えたら

さも、本人の人権を、守れる、かのように、錯覚させられた

うえに、

この際、前もって、ジブン達のほうから、やってもこれるようにした

うえに、

近所、親戚、含めて回り中から、チクレるようにした

うえに、

ありとあらゆるところの、施設だの病院だの、の

金銭的腐敗を、突っ込まれないように、

したがって、面倒くさいことから、セキニンから、逃れられるうえに

適正手続化、適法化、ナントカカントカを担保するには、

もってこいのものだったのである。

丸投げ、である。

地道な、関係性の構築は、後なのである。

しかも、法的権限と拘束性は、実に、強いのである。

関係性の実質の中味は、もはや、問われない、モノ、なのである。

だから、これまでの、ありとあらゆる、

ニンゲンとしての付き合いや、関係性の長さや、深さは、無視なのである。

恐ろしいことである。

しかも、取得するにムズカシい国家資格だが、儲けシゴトには繋がらなかった

そういう、不満たらたらたらたらたらたらの資格取得者が、

バンザーーーイバンーーーーザイバーーーンザイ

バンザーーイ、万々歳、

できるようにしたのである

ハッキリ言えば、

司法書士だの、社会福祉士だの、行政書士だのが、大々的に、

参入しやすくしたもんだから、タマラナい。

特に、社会福祉士は、福祉系の資格としては、ムズカシイくせに、

働く場所が無かったのである。

ケアマネ、サビ管、PSWを横目で睨みながら指を加えて、いたのである。

それが、いきなり、バンバンである。ここ2、3年どこもかしこもが、

後見人を着けよう付けようと、しているのだから。

行政の後押しも、凄まじいものがアル。

司法書士と社会福祉士が、業界として力瘤をいれている姿も、

凄まじいものがある。

その系統のNPOに、い君が、電話をしたところ、さすがに、これだけ、身近な長くやってきたところと、話す必要がない、と云う態度は、モンダイである、とは、しながらも、コチラでは、どうもできません、と云う、コトであった。まぁ、そんなトコロであろう。

逆に、イワモト某のようなのが、ドンドン出てくれば、この制度の欠陥が、明らかになることであろう。実際、イロイロな裁判や提起が、おきているようである。ひとつは、かえって、後見人に金を巻き上げられたというヨウな事件が頻発しており、これでは、なんのためにこの制度を造ったのか、わからないような事態も、アルようで、コレは、容易に、想像できる。もうひとつは、お年寄りではなく、障害者関連で、いくらなんでも、権限が強すぎて、人権侵害に当たる、と云う趣旨での裁判や反対もあるようで、今後とも、この制度には、監視を続けるべきである、と想った。

司法書士にとっては、ヤットコさ、オモシロい金づるを掴んだ、と云う、トコロであろう。行政書士と共に、どうしても、弁護士とは、一段低い専門職に見られ、なおかつ、行政書士よりは、ムズカシイ資格なのである。これは、精神病院での医者と看護に挟まれた、パラメディカルスタッフの立場に近い。と云う事は、己が専門性を誇りにしていて、医者よりは下に見られ、看護よりは、上等と思い込んでいるパラメが、やりそうなことを、やらかすにチガイないのである。行政にとっても、障害者にとっても、なかなかに、オモシロ酷いことを、やってくれるに、チガイないのである。

そも、イワモト某は、司法書士なのか、社会福祉士、なのか。

しかも、儲けに繋がらない、ナサケナい弁護士まで、儲かるかと、思って、か、勢いつけて、助走して、参入である。

い病院の地域連携室までもが、この手の弁護士が、余りに、お粗末すぎて、家庭裁判所に、意見を申し述べている、次第なのである。このことについては、い病院地域連携室は、ナカナカに患者のために、やっているではないかと、褒めたい、のである。コレは、皮肉ではなく、本当に、褒めたい。

徹底的に、拒否しないと、ダメですよ、コイツは、タイヘンなコトになるんですよ

ヤバイことになりますよ

ご近所さんからの密告で後見人を着けようと云う

動きが、一旦スタートすると、誰にも止められないのです。

ご近所さんからの通報一本で、手続きがスタートしてしまうこともアルのです。それを止めようとしても、止められるもんじゃナイ。本当の事なんですよ

い病院の地域連携室までもが、コウいうコトで、本当に困っているんですから

オソロシい世の中に、為ったのですよ

それに、心神喪失者医療観察法と生活保護の改悪

が加わるのです。

この三点セットで、ドウいうコトになっていくのか、

よーーーーーうぉぉぉおくぅ、考えた方が、良いですよ

本当にね

患者会として、長く、実際のセーカツに根差していると、

災難は、向こうの方から、やってくる。

わがらの方から、

運動をこしらえに行こうとする病者集団等々とは、

ソコラへんでも、文化が、チガウ。

我々、キーサンにとっては、ウンドーとは、

厄介なもの、身に降りかかった災難をどうにかセント、

生きられない、と云うことなのであって、

どうも、運動でもって、エラクなりたい、

審議委員にでも、検討委員にでも、

セカイ組織だのゼンコク組織だの、の理事にでも、

為り下がりがりたい、と云うノトは、ワケがチガウのである。

ハッキリ言って病者集団と全精連のオヤブンたちのことである

ぼくたち精神病患者は、

実は、精神医療従事者にも、福祉従事者にも、精神医療従業員にも、福祉従業員にも、

遠慮をして、暮らしてきました。

殺されるから、恐怖の下、殺されないよう、

遠慮して暮らしてきました。

ソコから、少しでも、脱却できたとしても、また、

遠慮して暮らしてきました。

なぜなら、嫌われたくは、なかった、からです。

嫌われると、診てもらえなくなったり、

外来診察を断られたり、

福祉制度に入れてもらえなかったり、

使えそうな福祉まで、教えてもらえない

ソンな意地悪をされたり、するからです。

だから、遠慮して、暮らしてきたのです。

身を寄せ合ってね。

もちろん、牙を剥きだして、叫ぶことも、ありました。

キーサン革命バンザイ、と、叫んでいるときにも、実は、、、、

そう、その時でも、支援してくれている、医者や看護婦や、

心理や、ワーカーに、作業所職員に、就中、精神医に、

遠慮して、暮らしてきました。暮らしてきたのです。

えばっちが、言っているのだから、間違いありません。

恥ずかしい、ハナシなのです。

ジブンの事として、言っているのです。

笠陽一郎と、えばっちの、関係性を、想い返しているのです。

 

後見人と云う、このクソッタレな、司法が任命した地位に、

国家資格のある専門職とヤラが、着くのです。

イヨーーに法的に守られた

こんな、糞ダメのクソのような、ヤツラと、

接触せざるを得なかった時、

同時に、笠陽一郎のセカンド減薬ハッタツ断薬療法と対決し、

自己批判の剣ヶ峰に、立って、

絶望の、荒野を見わたしていました。

同時に、表現としての、ゲンカイも、よく、分かりました。

反吐にしか、すぎない、と。

でも、反吐しか、書けない、のだ、と。

自分の中に封印していた、モノを書き始めました。

そして、それは、了解を取れ得ないままに、描くしか、ないと、想いました。

大半が、亡くなっていますからね、生者ではなく、亡者と

一緒に闘っているんですから、、、ね

それでも、友の会の書記部や、ホームページ企画部のなかまたちには、読んで貰いながら、書き進めていました。

友の会のミーティングで、了承を取りながら、、、書き綴ってきました

 

キーサン革命は、ついに、もはや、

遠慮なんか、もはや、しないと、想いました。

そう、もはや、

遠慮しない、覚悟です。

 

そして、反吐の中に、ジブンの反吐の中に

封印していたモノを遠慮なく、遠慮なく、書くことにしました。

だから、この間からね、、、、

個人的な『体験記』「入院セーカツ実録」「みんなの部屋セーカツ実録」を

赤裸々に書いているのです

 

この五か月間の恨みつらみとともに、

キーサン革命の鬼えばっちは、

腐った、社会福祉士、司法書士、弁太郎の

後見人ども、クタバレと、叫んで、おきます

キサマらが

クタバりさらせ

後見人ナンてモンは

イランのじゃ

わしらキチガイから

益々、本人の意向を聞く、と云う、大事をスルーさせ、

自分自身で、自分のことを決めることができないように、

させられるダケじゃあー

大概にしとけよ、アホンダラ

 

そして、いま、コレを書きながら、ホットしていルンですよ。

何故かって、だって、

もさんは、二回目の緊急搬送を生き抜き

い病院に戻ったのです。

この時の転院騒動もアリマシタ

そして、ついについに、我々は、

もさんの後見人イワモト某氏と、

い病院内において、団体交渉を、やりました。

12月中旬のことでした。

ソコに至るまでに五か月かかりました。

その団体交渉の中味と、さらに、

その後の後見人との関係は、第三弾に、

書きたいと、想います

激ウマのシーフードカレーの味を想い返しながら、、、、、

 

 

 

2014/11/6 起稿のもの  前進友の会えばっち

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