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原則と基盤第二巻

「性」と「暴力」と

「患者会」と

 

 

 

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序章

この文章は、ある方からなげかけられた、我々への疑問に対する、

回答として、構想されている。

我々の本質を突く疑問なので、本質で返そうと、想う。

ただし、キッカケであって、回答が全てではない。

だからコレは、患者会の原則と基盤を残そうとする取り組みの

第二巻となるものである。性と暴力と患者会のことを書いた。

 

本人の了解をとらないままに書いた。

了解を取れないのである、行方不明、連絡が取れなくなったなかまも、多い。

あの世に、行ったなかまも多い、岩蔵の共同墓のなかのなかま、も、多い。

替わって家族に、というわけにもいかない。

そもそもその家族もいないか、縁が切れている。

でも、そろそろ、書いておかなければと、想うようになった

25年間一緒に同じ釜の飯を喰って同じ便所でウンコしてきた

泣いて笑ってきた、えばっちが書くブンには、許してもらえるかとも想った。

四方ちゃんの意見も大きかった。

友の会のホームページ企画部と書記部、了解はある。

ただ、生者にとっては、これは、ニクマンが、湧くかもしれない。

死者にとっては、、、、ナニを今更なのである、、、、

それでも、今書いておこうと思ったのである。

さぁ、読んでください。

性と暴力と患者会と、です。

この後、書くことが出来得れば、

第三巻は「医者と健病者と患者会と」

と題されることになる

もう、書けないかもしれない

 

 

基盤のキバン

 

我々のセーカツそのものは、とてつもなく、保守的である。

前近代的といえるほどに、保守的な側面が、ある。

しかも、普段は、ノンビリとしたモンなのである。

我々は、挨拶を欠かさない。来たなかまに、必ず、挨拶を交わし、体調をチョウシを訪ねる。話題の最初のものは、体調と天気と野球と相撲である。

男は男らしく、女は女らしく、ごく普通の、今や古いと言われるほどの古い古い、男女間の役割分担と、規範に沿って生きている。

目指していたのは、古い古いタイプのフツーの男女カップルと家庭である。そして目指しても、得られなかった。

友情も、古い古いタイプの前近代的な友情であって、それは、キーサン同志の仁義といったようなモノを基としている。同じ釜の飯を喰い、同じように精神病院で酷い目にあった者たちが、他に行くところもなく、集まって生きているのである。

同じ釜の飯を喰い、同じレクで、喜び合ったものだけが、なかまなのである。

年功序列というか、長く一緒にいるなかまが、素晴らしく、しかも年長者が尊敬される。より病気が重いものが、シンドイかんじでいるなかまが、尊敬され尊重される。賛成多数的な民主主義は、相容れない。まるでムラかブゾクの寄合のように、全員の合意がなされるまで、しかも、会議やミーティングと言った場ではなく、日常の中で話し合われていく。

少なくとも、「拒否」が一人でも出るようなら、意志決定がなされない。独特の役割分担と、委任と、信頼によって、セーカツが続けられていく。一人一票的な決定はなされない。世論がすべてを決める。日々のセーカツそのものが、会としての意思決定の過程ソノモノなのである。

 

まず自分のことを語ろう

縷々これは書いてきたか、長い抑鬱状態を実家で過ごすことになった。

妹の「働かないものが、朝から二つも卵食べなはるんけ」という、一言が、きっかけであった。壮絶な血みどろな状況になった。

その後、エバッチは、実家からも京都からも遠く離れた精神病院で、ほぼ、一年近くを過ごすことになった。

その入院先で、医局長をやっているその病院の改革派の医者から、後ろから飛びかかられて、殴り倒され、首を絞められ、そのあと、さらに起き上がってきたところを、殴られ、ハツられした。

記憶が定かではない。

周辺にいた患者も、

そして、情けないことに、看護士や看護婦、作業療法士といった連中も、凍り付いたまま、茫然と、この医者から患者へのむき出しの暴行を眺めていた。

後で、地域の新聞記者が、この事件を嗅ぎ付け、入院中のエバッチに、取材を申し込んできた。もちろん、断った。

身の安全のためである。しかし、記事は出てしまった。

エバッチの出発点かもしれない。新聞記事の、見出しは、とてもべたで、精神病院内で医者が患者に暴行、といったようなものだった。

その病院で、一生を過ごすことになった大先輩の患者から、

たった一言、その時に、こう言われた。

そのあとも、ことあるごとに、注意をしてくれた。

ボクが、医者に殺されるかもしれないと、心配してくれた、ンダロウ。

「医者には逆ろうたらあかん」と、耳元でささやいてくれた。

 

そのおじいさんとは、エバッチが退院した後も、文通を続けた。

結局、何かの感染症に罹られて、意識不明となり、別の老人施設に送られて、そこで亡くなられた。バクチク本キーサン革命を持って、枕元に置いてきた。

それが最後になった。想えば、彼が囁いてくれた言葉を、

胸に刻みながら、

その全く逆を、二十五年間続けてきたわけである。

 

あるとき、とくんが、くちゃんを、蹴り続けていた。みんなの部屋のテレビの前でのことだった。くちゃんは、一切抵抗せずに、蹴られ続けていた。それまでに、ニクマンの高まる気配があった。どうしようもなかった。バクハツであった。蹴り続けるとくんも、蹴られ続けるくちゃんも、キチガイナノデアッタ。うちゃんが、すっ飛んできて、とくんをねじ伏せた。みんな真っ青であった。とくんは、出入り禁止となった。とくんのことを忘れかけた時、とくんの父親から電話があった。ビョウインから行方不明、になった。分かりませんかね、とのことだった。分からないと、答えた。その後のことは、わからない。どうすれば良かったのかと、未だに想う。

 

きちゃんという、あくどい患者がいた。弱いものにたかり、弱い患者をクイモノにする、患者仲間から、用事をお金で請負い、釣銭をいつも、パクッテいた。ナンヤカヤと患者仲間から、お金を巻き上げる、そんな患者であった。

お使いを請け負って、万札を持っていき、二、三千円のものを買って、おつりは、自分のふところへ、と云う、精神病院のセーカツの中で、必ず出てくる、患者のひとりなのであった。

綺麗ごとではない、男の患者がお金に困れば腕力であり、

女の患者がお金に困れば、売春であった。そのようななかに、きちゃんがいた。

みんなの怒りは、きちゃんのその仁義なき行いに対して、沸点を迎えようとしていた。それは、どのようにして始まったのか記憶もサダカデはない。

それはいきなり始まり、そしてうちゃんがすっ飛んできて、きちゃんをねじ伏せた。こういうときに頼りになりそうなアルバイトスタッフの若者なんか、便所に籠っていた。紙が無かったんですよ、賃金の袋を破いて、ケツを拭いて出てきたら、全て終わってました、って言う。みんなが、肝心な時に、と言えば、紙をちゃんと、入れておいてくださいよ、あせりましたよ、って汗びっしょりで言った。

みんな、真っ青になりながら、こわばった顔で、笑った。

この事件の唯一の笑えるハナシであり、未だに、このことは、よく話される。

その後、きちゃんは、どこに行ったのか、我々は、知らない。

どうすれば、良かったのか。どうすればよかったのか。

 

暴力を振るえば、即座にみんなの部屋出入り禁止である。盗みも、そうである。嘘も、である。セクハラというコトバの前に、女を苛める男は、女性に対して無礼な男は軽蔑され、許されない。出入り禁止である。我々のセーカツは、古い超保守的な道徳に沿っている、としか、言えないモノがある。仁義礼孝信によって、生きていっていると言っても過言ではない。我々のセーカツに性的逸脱行為と暴力行為は、許されない。みんなの部屋出入り禁止である。そして、それは、以下に述べることが、矛盾しつつ、しかも、矛盾するがゆえに、根拠になるのである。みんなの部屋のセーカツがなぜにそうなるのか、矛盾しつつ、混乱しながら、説明される。これは、リクツではない。

 

原則のゲンソク

そも、精神科治療なるものは、暴力行為と性的逸脱行為を、限りなくゼロに近づける試みであった。その究極点に心神喪失者医療観察法がアル。全ては、綺麗で快適で健康で安全なシミン社会トヤラを守るためであった。

そのためには、措置入院、強制移送制度、精神科救急、警備会社の搬送サービス、電気ショックしかり、看護士の暴力しかり、大量投薬しかり、四肢拘束しかり、保護室しかり、閉鎖病棟しかり、であるならば、キーサン患者会は、患者会として、まっとうに患者会を維持し続けるならば、性の問題と暴力の問題は、その根底的な存在意義としても、考え続け、悩み続け、セーカツの場で悩みクルシミながら、実践していくしかなかった。患者会の歴史は、ウンドーというものを、切り離してみても、そのウンドーとして、セーカツソノモノが、性の問題と暴力の問題から、切り離すことはできなかった。

しかもそれは、『容認的態度』である。

我々キーサン患者会は、性の逸脱を積極的に容認する。

我々キーサン患者会は、暴力自体を積極的に容認する。

何となれば、我々がキチガイだからである。

我々は「イロキチガイ」「キチガイに刃物」といった

昔ながらのコトバは、

我々の本質を表している。

我々キチガイのキチガイたる所以と考える。

我々はそのような者であることに、誇りを抱いている。

キチガイを、ありとあらゆる手段を通じて、快適で、綺麗で、安全で、健康なシミン社会に同化させる取り組みを、我々は、峻拒する。

その峻拒は、理屈からは来ない。

セーカツと、我々が歩んできたセーカツの歴史とが、自然に自動的に峻拒させるのである。

当たり前である。

我々のナカマで、家族に向かって何らかの暴力行為を働かなかったものはいない。えばっちは、あの映画「かけがえの前進」の中で、妹に対する殆ど殺人にまで至るような暴力行為を告白している。もう一人のなかまは、家族に向かって出刃包丁を持ち出したことを、「キーサン革命宣言」という本の中で告白している。我々の持つ狂気ソノモノが、暴力行為から出発しているのであり、そしてそのことは、もう二度としません、改心しました、治りました、というような全精連のようなハッタツ障害者のようなお利口さん路線に、直結するものではない。

逆である。自分の暴力性を認めると言うことは、暴力を全否定すると言うことではなく、二度目三度目もあるカモシレナイという、加害者性と向き合うと言うことである。

加害者が暴力を容認するのである。

被害者が暴力を容認するのである。

NHKのテレビのような、あるいは全精連や全家連が、ハッタツ障害者が、心優しき障害者達があんな悪いことは二度々しません、これからは、みなさんのめいわくにならないように生きて参ります、

という、加害者が暴力を否認し、被害者が暴力を否認するといった、

健常者社会に積極的に同化しようとするものとは、明らかにチガウ。

そも、ハッタツ障害者も全精連も、被害者でアルことを前提にしている。

みんなの部屋で、ここに、家族にシビアーな暴力をふるうたモン、

手あげてみぃひんか、と問えば、ほぼ全員が、ぼくもです、って、手を挙げるのである。血をみたか、と問えば、血をみました、って、答えるのである。

こぶしを握って、ぐぅで、親父を殴りましたからね、って言うのである。

刃物を、両親に向けました、って言うのである。

なかなかに、言えないことが、ハナサレるのである。

 

我々は、加害者であることを前提にしているのである。

我々は、被害者性からノミで、モノを言わない。

加害者性から、も、モノを言うのである。

特に、加害者として、モノを言うのである。

そこが、ハツタツ障害者や健病者や全精連や、全家連や、

お綺麗なシミン派人権団体とのチガイである。

実は、あれほどの権力を持ち腐った精神医も看護士も看護婦も、

被害者性からモノを言うのである。オカシなはなしである。

健常者社会、シミン社会そのものが、被害者性からモノを言うのである。

われわれキーサン患者会は、チガウ。

なぜなら、我々のセーカツソノモノが、我々のなかまたちソノモノが、

我々のなかまの中で、二度目三度目の暴力があるからである。

実際にあった。

その時に、その暴力行為を完全にゼロにするためなら、

精神科治療を全て受け入れていくという態度を取るわけにはいかない。

キチガイの生ソノモノに暴力はアルのである。

精神病患者会だから、暴力が怖い、という態度は、実は、スバラシく正しいのである

。その上で、過激な抗議行動を取る患者会なので、暴力がコワイ、という態度もまた、実は在りがたいのでは、ある。

がしかし、本質は、我々がキチガイだから、暴力が怖い、という態度こそ、

実は正しいのである。綺麗で安全で快適で健康的なシミン社会にとって、これほど、キケンな存在はいない、と、想う。

ダイレクトな暴力がアルのだから・・・

我々キチガイはキケンな存在なのである。

精神病患者会の本質に迫っている、ので、アル。

「やられたらやり返せ」といった、次元の問題ではなく、

勿論、「やられたらやり返す」のは、当然なのではあるが、そういった次元のモンダイとしてダケとらえているわけではない。

キーサン患者会とは、暴力性を積極的に容認する、そこから、出発するのである。そもそも、我々の存在自体が、我々のセーカツソノモノが、暴力性と向き合うことで、成立しているからである。

我々のナカマ内でのニクマンから来る大爆発に、みんなで、戦々恐々としているのである。明日被害者になるカモシレナイが、また、明後日は加害者になるかもシレナイのである。来週は加害者であり、来月は、被害者なのである。

従って、キーサン患者会のキーサン患者会たる最大の所以と特徴は、己が加害者性を持った暴力性の積極的な容認にあると言っても過言ではない。

 

我々は、悩み続けるのであって、

だからこそ、こういう結論に飛びつくわけではない。

私たちは一切、今後一切、暴力はふるいません、アレは病気のせいでした、立派なセンセイの皆さんに治療して頂いたおかげで、クスリのおかげで、

電気ショックのおかげで、治りました、まっとうなニンゲンになれました、

センセイと看護士サマのおかげです、今後一切暴力はふるいません、と。

ソンナことを本気で病者が言っているとしたら、もし、それが本気だとしたら、自立したキーサンにも自立した患者会にもなれないと想う。

我々は、加害者にも被害者にもなり得る。

それが、キーサンのセーカツである。

勿論、生き延びるため、あるいは、退院するために嘘でも良いので、暴力はおこしません、と、そう言わないと退院できないのであれば、嘘でも良いので積極的に言うべきであると、想う。だから、嘘言って、退院するのです。嘘で良いのです。嘘こそ神なのです。生き延びましょう。

だが、しかし、そう、信じ込んではならないと、想う。

嘘で、退院したのだから、後は、嘘無しで生きよう、と、想う。

そして嘘無しのキーサン人生の方が、シンドいカモシレナい、だが、我々は、そのシンドい側を選んだのである。それが、キーサンという生き方を選んだ、と言う事なのだ。

我々は、いつ如何なるときにも、暴力と共にアルのである。

暴力とともにあらんことを。

「暴力行為」を、「性的逸脱行為」に読み替えて貰っても、真である。

つまり「反社会的行動」全てが、真でありうるのが、

キチガイのキチガイによるキチガイのための患者会、

キーサン患者会なのである。

以上が、患者会としての原則である。

患者会の原則としては、これが原則の中のゲンソクである。

 

原則のキバン

以下は、患者会の原則の中の基盤である、原則と基盤があり、その中に、また、それぞれの中に原則と基盤がアルのである。

患者会の基盤としては、ナカマ内で暴力をふるった場合、出入り禁止である。性的逸脱行為も同じである。従って、この原則と基盤を、どのようにバランスを取りながらセーカツし続けるかが、キーサン患者会の根幹となる部分である。つまり、原則を守りながら、あくまで原則を守りながら、みんなで、みんなのチカラによって、基盤を維持し続けることである。誰もやらない、誰かがやってくれる、のではない、自らが、やるのである。

だから、却って、全精連や全家連の皆さんや、ハッタツ障害者やクラブ方式のみなさんに、聞いてみたいものである。ナカマ内の暴力をどうしているのですかと。すぐに治療と隔離とクスリですか。性的逸脱行為を、すぐに治療とクスリと隔離と拘束ですか、と聞きたいのである。精神ビヨウインに売り渡すんですか、と。それとも権力に売り渡すのですか、と。法的手続きですか、と。

 

その上で、我々のもう一点主張しておきたい暴力に関する問題がある。

それは、精神病者が表現するという問題である。

精神病者が、何らかの表現をしたい場合、その表現手段は、表現とする目的とイコールになる、とえばっちは想う。と云う、か、イコールになってしまうのが、キチガイなのである。表現しようとする内容目的が、ソノマンマ表現手段となってしまうのである。そうなってしまうのがキチガイのキチガイによるキーサン的表現なのである。リクツではない、セーカツから、言えることなのである。

つまり、キチガイにとっては、表現は目的のための手段、ナンゾになり得ないのである。そこが、まさしく、我々キチガイのキチガイたる所以だと、想うのである。「短絡的」「間を端折ってしまう」「原因と結果の間をうまく説明しきれない」と云う、言い方に近いのではあるのだが、そうではまた、ない。のではあるが、リクツを言えばソコに近いのでとは、想う。

ともかく、ゲンジツでは、キーサンの表現は、学者や医者や健病者やハッタツ障害者のいうところの綺麗な安全で快適な、健康的な、シンポジウムや、パネリストや、学会の講師や、行政の検討委員などと言ったものに、向くわけがないのである。ソンなモノに向かない我々キーサンの表現ソノモノが、キチガイ人生の本質なのである。

逆に言えば、そういう学会や講演やシンポ場面から阻害され、排除され、質問も受け付けて貰えず、しまい口には予約制の会場だからと言って、会場にも入れさせて貰えない場合、我々には一体ドノヨウナ表現手段が残されているというのだ。また、シンポジストタラパネリストタラいうもんになれるのは、そも、ハナシができる、コトバを操れる病者に限られるのではないか。

だとしたら、それは、軽い病者サマやハッタツ障害者サマ、健病者サマ、の、お利口表現手段であって、重たい病者は、ドウシタラ良いのだ。博士サマ当事者の講演といったところとは、真逆の表現にならざるを得ないのである。

その状況の中に、十年ほどいれば、キーサン患者会の抗議的表現手段が、

暴力的要素を含むことを、同意しなければならないと想う。

そういう、排除の歴史を、我々は嫌というほど想い知らされてきたのである。

リクツを並べられるものだけが、表現者足り得る、そんな表現手段を

キチガイは、心の底から、憎悪するのである。

より具体的に言おう。今後、神聖申請新制無責任ハッタツ障害当事者スタッフ人形抱っこ臨床薬学博士法務省矯正局翼賛運動ボスを名乗り始めている片岡聡博士サマに対して、我々がイロン異論がある場合、その異論をどのように表現すべきか、具体的に考えて貰いたい。どのような場でどのように、異論を表現できるであろうか。

まずもって、講師の先生サマサマの意向により、我々は会場にすら入れないであろう。シンポジストにも呼んでは貰えないであろう。そもそも、ネットで参加申し込みを受け入れてもらった者のみのクローズドでやり始めるであろう。そして、カタオカ先生サマサマが論文を発表された学会誌に、我々が反論投稿を載せようと想っても、まずもって、こころの科学誌は、掲載しないであろう。しかも、本人は、なんだかんだと、これが発達特性です、といて、セキニンも取らずに逃げ回ることであろう。ソンナコトは分かり切ったことである。過去に、何度も、現実に、そう扱われたのであった。

暴力反対というならば、片岡聡博士サマに対するキーサン患者会からの反論の表現手段の対案を出さなければならない。

もちろん、それは、具体的にやれることでなければならず、現実的にやれることでなければならない。そしてその対案は、表現しようとする目的とイコールでなければならない。そして、重たい、コトバを操れない病者も参加できなければならない、と、えばっちは、想うのである。

我々キチガイにとって、表現は目的の手段ではない。

表現ソノモノが、目的なのである。

『カチコミの意義』とは、そういう意味なのである。

「病状を伴った怒りの暴発」のみを、病者の正当なる怒りの表現として暴力を容認しているのではない。モチロンこれはこれで、サイコーに素晴らしいコトなのである、、、まず、ソコカラ出発する、そして、ついに、『カチコミ』にたどり着くのである。

『カチコミ』といった場合、そこには、なにがしかの計画性と組織性があるのであり、その若干の計画性組織性を持った、その上での病状を伴った怒りの暴発を組み込んだカタチでの、病者の正当なる怒りの表現としてレクレーション的暴力性を『カチコミ』として、積極容認しているのである。

それは、ビミョーなバランスの上に成り立っているのである。

したがって、「病状を伴った怒りの暴発」のみをシブシブながら

ナントカ認めようとして、実は認めきれていない、

良心的医療業者福祉業者的立場を一歩も二歩も、

というか、相当程度、踏み越えチマったモノなのである。

それは、今後、くじらの母親中心家族会の相談会に、

我々がカチコミをかけると、言った場合どうなのか、

神聖申請新制無責任人形抱っこ法務省矯正局翼賛運動ボス片岡聡ハツタツ博士とソの小教授ズ団体にカチコミをかけるといった場合、どうなのか、で、問われることになる。

我々が問われるのではない。

あなた方が、問われるのだ。

良心的医療業者福祉業者的立場のみなさんが、

問われることになるのである。

 

 

基盤のゲンソク

そもそも、精神病者の発病のキッカケに性的抑圧と、思春期を上手く乗り越えられなかった

異性と上手くつきあえなかったというのがある。

もてなかった、というのがアル。

中年になっても、異性にもてなかった、異性とカップルになることができなかった、結婚なんてエリート病者のもの、結婚・出産・家庭などというものは、勝ち組エリート障害者のものだったのである。

だからこそ、我々は、フツーの男らしさ女らしさ、恋愛、結婚に、憧れたのである。そのあこがれは、ほとんどの場合、絶望に為ったのである。そこから出発しなければならない。

フェミニズムの論者が障害者ウンドーの場面で、大しくじりをやらかすのは、

概して、こういう障害者の想いをわかっていないからである。

いや、わかっていて、ソレをリヨウしてしまうことなのかな・・・・ヒドイやりようだ。

さらに付け加えよう。

患者会において、若い、健康で、溌剌とした、専門職のスタッフが入ってくることは、そのスタッフ達が大もてにもてる、と言うことを意味している。

これは、デイケアや作業所でも一緒だと想う。

病棟では若い看護婦さんとイケメン看護士かな。

そうそう、若手の精神医も、か。

いや、逆かな、つまり、

大もての健常者スタッフは、その性的魅力をリヨウしてデイケアや作業所を維持していると言っても過言ではない。しかも、そのうえ、ご丁寧にも、ソンナことをしながら、病者同士の男女交際禁止とかいう、ルールをこしらえたりするんである。もしくは、主治医の了解と治療のもとでの男女交際とか・・・・旧プシ共闘系精神医のやりそうなことでは、アル。

外来診察室で、男女交際の指導をヤル、といったことが、この手の医者が、ワシは革新的精神医だと自認する、所以、となっていたりする。

デェイケアスタッフは己が性的魅力を最大限にアピールして、精神医は外来診察で男女交際をコントロールして、その上で外来待合室やデイケアでは男女交際禁止、メール交換禁止、といったルールをこしらえたりするんである。

デェイケアの青年たちは、スタッフのオネーサンに淡い恋心を持ってしまい、党のスタッフには、そんな気は全くないものの、無意識にその好意を利用して、デェイケアを維持しているのである。結果、その恋心は、病者同志カップルの芽を無残にも、摘み取ってしまったりする。そんなことを何度も目撃してきたのである。中には、せっかくうまくいきかけた障害者同志カップルをものの見事に破壊した状況もはた目から、ようようと、見させてもらったのである。

ちなみに、スタッフの意図的性的魅力のリヨウという点では、不登校、引きこもりのセーネン達のもとに「レンタルオネーサン」を派遣する、というような、NPO、ようなモノ、までアッタ。ヒドイハナシダ。オソロシイハナシダ。

ところが、まぁ、同じような状況のなかで、

患者会は、自主的に、自主自尊的に病者同志で、その問題を解決しようとするので、想像を絶する男女間と男男間と女女間の、想像を絶する、キチガイ同志のニクマンの嵐ということになるのである。

精神医の外来にも、ふらないようにする。

したがって、これは、場合によっては、殺人、暴行、自殺、つきまといといった、想像を絶する事態を呼ぶことになる。我々は医療モデルではないので、それを、自分たちで解決しようとする。しかも、その解決しようとするなかまたちもまた、性的な問題で思春期を乗り越えられなかったナカマが多いのである。

 

女の子と、セックスをしたことも、キスしたことも、抱き合ったこともなかった、そんななかまが、多かった。そんなことは、奪われてきていた。

誰に。精神病院と医者と、母親とに。そして自分自身に。

病状で、若いころ、それどころではなかった、って、言うなかまも、多い。

ほんとうに、そうだ。

 

しかし、本当に、患者会内で男女カップルが本当に素晴らしく成立することがある。ふさんとたさんが、ここで知り合い、そしてここで愛をはぐくみ、ついに、結婚することになった。結婚式は、みんなでやった。飾りつけも、料理も、司会も、出し物も、みんなでやった。素晴らしい結婚式だった。

二人は、友の会みんなの部屋と、えばっちの住む団地の中間地点に新居を構えた。しばらくたって、病者同志カップルの病状を伴った夫婦げんかのたびに、えばっちがアパートまで走って見に行くという、新婚セーカツが続いた。結構激しい夫婦喧嘩だった。暴力もアッタ、さしずめ今ならドメスティクバイオレンス、と云うことになるんだろうが、ゲンジツと云うのは、またチガツテいてて、なんというか、タイヘンだったんだ。よく、呼び出されたモンだ。

そのうち、こんな電話も、かかってくるようにもなった。

セックスがうまくできない。やり方を教えてほしい、といものだった。

どうしたものかと想ったが、男と女が、好きあって一緒になってお互い裸になって、布団の中で試行錯誤しているうちに、うまくいくもんだと。お互いはじめてなんだから、最初の一、二か月は、うまくいかなくたって、裸で抱き合ってたら、充分愉しいじゃないかと、ナニカそんなことを言った。毎回毎回タイヘンだった。それでも、このカップルがうまくいっていたら、とても、良かったと、想う。破たんは、別のところから、迫ってきていた。そのハナシは、今ここではまだ、書けない。

 

十年以上は、ムカシのことである。

あるとき、やさんと云う、女の子が、うちにアルバイトとして、はいることになった。今から想えば、ヂゴクの釜が開いたと云う、形容がピッタリな状況になっていく。

その時、まさか、こさん、と云う、第一世代を代表する女性スタッフと一緒になって、アレホドの事態を招こうとは、想いもよらなかった。

大概、今までの場合、やさんタイプと、こさんは、対立するのが、フツーだったからである。ところが、あれは、レズか、と云うような、やさんとこさんのさわりっこの中、ドンドン事態は、深刻になっていくのであった。

やさんが言うには、自分は、トランスジェンダーと云うもので、男でも女でもなく、如何なる性的な法律や規範や道徳には、縛られないんダトいう。だから、男とも、女ともセックスするし、何人もの人とセックスするし、同時に複数の恋人がいることも、おおいに結構なんだそうである。

しかも、見た感じは、はっきり言ってとっても魅力的な女性ソノモノなのであった。

最初に引っかかった大問題は、男便所と女便所を区別していることが性差別に当たる、とかいうことで、便所を男女共用にすべきだ、と云うトコロから始まった。そして、それは結構な議論になった。今想えばバカバカしい限りである。その時に言っておくべきだった、だが、しかし、元気な若いやる気のある魅力的な女性スタッフの魅力たるや絶大なものであった。ついには、おとこもおんなも、やさん中心のピンクサロンのようになっていった。それは、想像を絶する状況で

何人かの古いナカマたちから、こんなところに来るのはもうイヤだ、から

やさんはワシと結婚してくれると約束してくれた、から

家族も友の会も、みんな捨てて、やさんと駆け落ちするんだ、とか

まさに想像を絶する事態となり、複数の人死にの可能性が出てきた。

誰かが、想いきって、やらなければならない時が、迫ってきていた。

そして、それは、徹底して、行われた。

この時の傷はいまだに癒えていない。

現在の友の会のみんなの部屋のは、未だに、

この傷から、いかに脱却していくかという過程の中にある、と言っても過言ではない。この時の傷は10年以上経った今でも癒えていない。

 

つまるところ、1976年の発足以来、の、

そしてえばっちが知っている1990年以来でも、

本当にたくさんの、ここにも書ききれないいろんなことがあった。

自殺に直接的につながったことも何度かあった。それはまだ書けない。

本当にすさまじいことが、怒ったのだ。それは、すさまじく怒った。

どうしようもなく、悲惨にオコッタ。

詳細を書くことは、まだ、未だ、できないのではあるが、それは、本当にとてつもないことが、引き続いて、オコッタのである。

 

せっかくの病者同士のカップルなのにどうしようもない家庭内暴力、

病状を伴った三角関係のもつれ、

同性愛者の存在やトランスジェンダーの存在と

もてなかった男と女たち、

愛の逃避行事件、

カップルになった途端、女は生き生きとして病気が治ったようになり、

男はドンドン悪化して再入院、

看護婦さんにつれなくされたとその看護婦を追い掛け回す男患者、

その逆、デェイケアのスタッフにふられたといって

男スタッフを追い掛け回す女患者たち、といったモンダイもタイヘンダッタ、

その軋轢から逃げてくる病者達

せっかく病者カップルになりそうなのに、

それをぶち壊していくデイの女性スタッフたち

もてにもてる看護婦とイケメンスタッフたちへの憧れからくる

喧嘩ケンカケンカ、、、、

でも、それらを、はるかに凌駕するようなことが、イロイロあったのだ。

このモンダイを真剣に考えたい、という方がおられたら、

直截にハナスことはできるが、文章化は、出来ないと想う。

これらを我々は、自主自尊自衛自問自答自闘自レクのなかで、

ナントカしようと、あがきにあがきにあがきにあがいてきたのである。

 

この結果、我々前進友の会は、意図はしなかったが、本当に意図しないまま、男だけの患者会となった。我々は今、本当にホットしている。

このホット感は、おそらく、理解されないだろうと想う。本当にそう想う。本当に、男女間でいろいろあったのである。そしてそれを、ナカマ内で解決しようとして、どれほどの目に遭ったことか。

だからといって、もっとも大切な人間関係を、どこかの申請神聖ハッタツ無責任人形抱っこハツタツハカセ法務省矯正局翼賛運動講師口だけ片岡聡の言うように、スタッフや医者に丸投げなどということは、出来なかったのである。

どれだけ、クロウにクロウを重ねたか、もうカンベンして欲しい。

そして、男ばかりになった今、今度は、意図的にこれを維持したいと想う。本音である。従って、フェミニズム傾向のある方で、母性傾向が強い女性の方は、遠慮して頂きたいと想う。われわれは、さんざん嫌な目に遭ってきた。もてなかった。パートナーもできなかった。子どもなんて以ての外。家庭など持つことができなかった。我々はそれで良いと想っている。そして、こうなって初めて、二十五年来のなかまたちが、思春期時代の性の抑圧について、あけすけに語れるようになった。それの方が、今の我々にとっては、良かったと想う。

 

「母性豊かなフェミニズム傾向のある暴力否認型のやる気のある素晴らしい女性スタッフ」はほぼ、必ず、「依存サセ屋」になるというのが、えばっちの、経験からくる結論である。

 

福祉や医療現場において、最悪の結果をもたらす者たちである。もちろん、たいていの大多数のアクトク殺しの病院福祉を除外して、デノ、はなしである。

若干、「見えやすいアクジ」と「見えにくいアクジ」のチガイにも、近いハナシである。

一見よさそうに見えるのが、かえってオソロシイ。しかも、精神障害者、知的障害者、そしてなかんずく、ハツタツ障害者の中に、依存したくてしたくてタマラナイ者たちも多い。なら、依存してもらいたいスタッフと、依存したがる当事者なら、スバラシイ組み合わせだと、想われるであろう。つまり、モンダイは、そこにあるのである。母から自立しようとして果たせず、次は、医療福祉専門職から、自立できなくなるのである。

そのような「依存サセ屋」スタッフに、もっとも、なりやすいのが、その「母性豊かなフェミニズム傾向のある暴力否認型のやる気のある素晴らしい女性スタッフ」なんである。

したがって、このような方は、患者会には、

近寄らないで頂きたいもんなのである。

自立しようとするキチガイを必ず、依存サセ、牙を抜き、飼いならそうとする。

必ず、ソウナル。オソロシイ。

エバッチは、見てきた、味わってきた、

そしてソレが、結果として、ナニをもたらしてしまうか、見てきたのでアル。

今後ハッタツ障害バヤリとともに、人形抱っこ片岡聡のようなハッタツ博士の依存して暮らしたい、徹底的に依存して才能を開花だ、ミタイなのが、ドンドン出てくると、より一層、エバッチの言う『母性主体フェミニズム傾向型依存サセ屋』タイプの医療福祉従事者の問題が出てくるであろう。十年ほどたてば、おのずと、ワカッテキマスヨ。タイヘンナ事になってますからね・・・・おそらくはね。

 

キチガイのキチガイによるキチガイのための、

精神病院と医者と看護士に復讐を誓った、

牙を抜かれなかった

異性にもてなかった、

オトコばかりの腐った暴力容認の、

健常者シミン社会に敵対的な、

クスリがゼロにモならなかった、

就職も就学も出来なかった、

キーサンとして仁義あるトモダチづきあいを大切にし、

食事会とレクばかりしている、

特にこのところの食事会メニューの充実は

素晴らしいトコロの

反社会団体とは、反社会復帰団体とは

キーサン患者会前進友の会の現在のアリノママの姿である。

ダラケきった腹の出た

中年高年オッサン病者達の

パラダイスに行き着いた

のである。

ありがたいことである。

このまま進みたいものである。

もしこのケイケインが、今後患者会をやりたいと想う、みなさんのお役にたてれば、

と、そう想う。

が、誰にも、見向きもされないことであろう

が、それでも、歴史に遺し、そして

最後に、笠陽一郎医師と、ハッタツ障害と

対決しながら、滅んでいきたいものである。

 

2014/3/12起稿   前進友の会 えばっち

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